木谷 備中守
きだに びっちゅうのかみ
16世紀前半の竹原小早川家臣。
東西条鏡山城の陥落
大永三年(1523)六月、出雲から南下した尼子経久の軍勢が、大内氏の安芸支配の拠点である東西条鏡山城を攻撃。厳島神社の神官、棚守房顕は、この時千人ばかりが討死したと覚書に記しており、激しい戦いが展開されたことがうかがえる。『陰徳太平記』「芸州西条鏡山城没落事」の項によれば、落城時に城将・蔵田房信の妻子は竹原(小早川氏)の木谷備中守に預けられたとされる。
以後の木谷氏
上記の『陰徳太平記』の記事以降、天正年間の木谷景忠まで木谷氏の動静は史料上不明となる。小早川隆景時代の「座所書立」十九通に名前が一度も現れない。この「座所書立」は永禄二年(1559)から天正十四年(1586)までの正月儀礼の際の席次を記した史料であり、当時の小早川家臣団の主なものは網羅されていると考えられている。
このこととの関連は不明ながら、天文二十二年(1553)六月には、小早川隆景が田坂与一兵衛尉に他の所領とともに「木谷反銭之内弐貫文」を与えている。