麻生 弘家
あそう ひろいえ
15世紀後半の筑前の国人・麻生氏の惣領。上総介。麻生義助の子で、家督を義助から継いだ家春の弟。
家督継承
永享八年(1436)頃の六月、家春・家慶の父子がそろって討死する。さらに家慶の嫡子・又光丸も早世したことで、永享十年(1438)九月、弘家は足利義教から家春の遺領の相続を認められ、麻生氏の家督を継承する。
嘉吉三年(1443)六月、幕府下知条で弘家所領の当知行が安堵されており、この頃には弘家の惣領職が安定したとみられる。その後、子の弘国に家督を譲り、康正元年1455)十一月、足利義政から所領の安堵を受ける。
一族の内紛と大内氏への従属
しかし、文明二年(1470)六月、麻生家延により弘家・弘国は所領を追われ、当時、戦乱で京都にあった大内政弘を頼ることになる。政弘は文明十年(1478)から豊前・筑前に出征し、十月、花尾城に篭る家延を降伏させる。同月、麻生氏本領が返付安堵され、翌年に弘家が幕府に鳥目二千疋などを献上している。ここに弘家系の惣領権は確立したが、一方で大内氏への従属も強まることになった。
流通への関与
弘家は在国奉公衆として筑前料所の年貢進上を行っていた。文安二年(1455)十二月、幕府が海上諸関に弘家の「九州知行米五百石内二百石」を勘過させる過書を出しており、『兵庫北関入舩納帳』にも「麻生殿」の過書を持つ船がみえる。
また弘家は対外交易に関わって、幕府に「渡唐御荷物」の進上も行っている。『親元日記』文明九年四月十九日条には麻生弘家の御礼として「香合剔紅、盆推紅」とあり、弘家が貿易で唐物を入手していたことが窺える。