荒谷 吉長

あらたに よしなが

 竹原小早川家臣。内蔵丞。16世紀半ば、三永村(広島県東広島市西条町上三永・下三永 )に権益を得た。

石立明神。 江戸期成立『芸藩通志』の三永村絵図には石立坂、石立明神の名がみえる。中世の「石立宿」も付近にあったのだろうか。
石立明神。 江戸期成立『芸藩通志』の三永村絵図には石立坂、石立明神の名がみえる。中世の「石立宿」も付近にあったのだろうか。

上仁賀を本拠とする土豪

 荒谷氏は安芸国賀茂郡上仁賀(現在の広島県竹原市仁賀町)を本拠とする土豪とみられる※1。天文五年(1536)三月、沼田小早川氏に属する小田氏と、高屋を本拠とする平賀氏が「取合」(武力衝突)におよぶ※2。このとき「荒谷内蔵丞」(吉長または先代の人物か)は矢傷を負って、小早川興景から感状を得ている(「荒谷家文書」)。竹原小早川氏から小田氏への援軍として、近隣の荒谷氏が派遣されたのだろう。

三永村での権益

 天文二十三年(1554)十二月、吉長は小早川隆景から仁賀に隣接する三永村の諸権益を与えられた。吉長は以前から三永村の「作職」(耕作権か)を保有していたが、「地頭」(三永村の領主)には年貢や公事、夫役を納めなければならなかった。隆景はこの内、夫銭二貫文と「石立宿」については吉長の給地とみなし、地頭に納めなくてよいことを認めている(「荒谷家文書」)。

流通との関わり

 「石立宿」は、田万里村(現在の広島県竹原市田万里町)三永村の間に位置していたと考えられる。「宿」は交通路上の要衝であり、宿場や市場が形成され、戦時には兵站基地になることもある。石立宿が吉長に給付されたことは、荒谷氏が交通・流通に関わる商人・金融業者的性格を併せ持つ存在であったことを窺わせている。

権益を去り渡す

 ただ永禄七年(1564)正月、吉長は荒谷美濃守国長と連署で、善五郎という人物に「給地」と「下作識」の全てを譲渡する旨の去文を作成している(「荒谷家文書」)。文書には「去り渡し申す」とあり、また「向後我ら少しも綺(いろい)の儀、あるまじく候、さりながら無力相究め候の条、その方分別をもって、形の如く憐愍の儀、頼み存じ候」※3ともある。単純な子や孫への相続では無かったことが透けてみえる。

Photos

東広島市西条町上三永の荒谷家墓地の宝篋印塔群。室町期頃のものと推定されている。 東広島市西条町上三永の荒谷土居屋敷跡。一辺約50mの方形居館跡。周囲には3〜5mの土塁が巡り、かつては堀もあったという。

関連人物

  • 荒谷彦次郎:小早川弘平から三津村太郎丸名の半分の給付を受けた。
  • 荒谷小法子
  • 荒谷国長
  • 荒谷善五郎:小早川家臣。吉長、国長から荒谷氏の給地と作職を相続した人物。天正五年(1577)五月、井上盛貞ら小早川家臣から備中国萱郡妹尾荘(現在の岡山県岡山市)の田畑を給付されている。
  • 小早川興景:弘平の子。

その他の関連項目

脚注

  • ※1:天文十一年(1542)、荒谷小法子は小早川興景から「西之村上仁賀」の「荒谷山」の権益を与えられている。興景はその理由を「名字之地」であるからとしている。
  • ※2:小田氏と平賀氏は、すでに15世紀末には田万里(現在の広島県竹原市田万里町)を巡って紛争を起こしている。
  • ※3:現代語訳すれば、「今後は少しも干渉いたしません。しかしながら無力を極めますので、あなたは道理をわきまえ、慣例に従って憐愍をかけてくれるよう、お頼みいたします」か。

参考文献

  • 黒瀬町史編さん委員会編 『黒瀬町史 資料編』 2004
  • 黒瀬町史編さん委員会編 『黒瀬町史 通史編』 2008