葛網

かつら あみ

 戦国期、江戸湾沿岸の田津浦などで行われていた大型の網を用いて行われたとみられる漁法。一説には摂津国や紀伊国から伝わったともいわれ、主に高級魚で当時需要が高かったの漁獲を目的としていたといわれる。

  永禄十年(1567)に比定される三崎城主・北条氏規の印判状によれば、氏規は田津浦(現・横須賀市安浦)の助右衛門に対し、「かつら網」によって漁を行うことを安堵し、これにより「走廻」(奉公)するよう命じている。葛網漁による「走廻」とは、葛網で漁獲した鯛などの魚の上納とみられ、「綱之うほ可被下者也」ともあるので、上納分以外の魚は助右衛門の取り分として認められていたことがうかがえる。

 別の氏規朱印状では、この葛網漁を毎年行い、「走廻」するよう命じているので、かなり大規模で、特権的な漁法であったと推定される。

  逆にいえば、北条氏は葛網漁を認可することで水産物を確保していた。このため16世紀後半、需要増大に伴い、田津浦には葛網漁以外の魚も上納することが義務付けられるようになり、天正十五年(1587)、ようやく田津浦側は北条氏規を譲歩させ、上納分を葛網漁のみに限定させている。

 一方で同年四月、田津浦が独占していた葛網漁が、北条氏当主によって新たに本牧浦(現・横浜市中区)にも認められている。これはさらなる水産物の確保を必要とする北条宗家と、大きな漁獲が見込める葛網漁への参画を図る漁村側の思惑が一致したためとみられる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 盛本昌広 「後北条氏の水産物上納制の展開」 (『日本史研究』359) 1992