鹿皮(ルソン)

しかがわ

 フィリピンのルソン島に生息していた鹿から作られた皮革。日本では革羽織や甲冑などの材料として需要が非常に高く、同島に来航した中国人や日本人によって、多くの鹿皮が船積みされて日本に運ばれた。

 スペイン人がマニラに初めて到来した1570年当時、マニラには毎年福建から中国人商人が来航していた。マニラには、や蜜蝋、シナモン、蘇木、そして鹿皮などの商品が集められ、福建をはじめとする各地に輸出されていたという。日本人もこの頃には、ルソン北部のカガヤンや中部のパンガシナン地方、それにマニラ付近にも来航して交易を行っていたので、鹿皮の輸入もスペイン人のルソン到達以前に遡ると思われる。

 ルソン島における鹿皮の交易状況については、アントニオ・デ・モルガが1598年6月8日付でスペイン国王に奉ったフィリピン諸島の情勢に関する報告書から知ることができる。
 モルガによれば、日本への商品として日本人や中国人がフィリピン諸島から鹿皮が積出していた。鹿皮はできる限り買い求められたため、原住民や宣教師すら鹿皮の売買に手を染めており、鹿の濫獲のために、当時のフィリピンでは鹿皮が欠乏しそうになっていたという。このためモルガは、この鹿皮交易を禁止すべきであると提言するに至っている。

 ルソン島における鹿の濫獲の状況は、1618年にフィリピン総督に提出された「フィリピン諸島報告」にもその一端がみえる。この報告書によれば、ルソン島のパンガシナン州は野猟豊富であり、僅かに20リーグの範囲内だけでも毎年鹿が6万匹、ある時は8万匹も多数捕殺されたという。原住民は鹿皮を税として納めていた。そして、日本人は様々な目的のために、鹿皮から良質の皮革製品を作るので、鹿皮貿易は日本にとって多額の利益を生む、としている。

市場・積出港

人物

  • アントニオ・デ・モルガ

その他の関連項目

参考文献

  • 岩生成一 「呂宋日本町の盛衰」(『南洋日本町の研究』 岩波書店 1966)
  • 岡本良知「一五九〇年以前に於ける日本とフィリッピン間の交通と貿易」(『キリシタンの時代―その文化と貿易』 八木書店 1987)