アゴー

あごー

 フィリピン・ルソン島 西部のパンガシナン州リンガエン湾奥、アグノ河の河口にあったとみられる港町。天然の良港であるリンガエン湾にのぞむパンガシナン地方は、元来、遠隔地との通交が盛んな地域であった。パンガシナンの勢力は、15世紀には中国へも通交しており、『明史』には「馮嘉施蘭」としてみえる。

「日本の港」

 1582年六月、ミゲル・デ・ロアルカがスペイン国王フェリペ二世に奉った「フィリピン諸島報告」にも、パンガシナン州についての記述がある。この中で、同州には平和の民四千人がいることが記されているが、ロアルカは彼らが頗る開化している理由として、彼らが支那人、日本人、ボルネオ人及び当群島の諸民族と通商していることを挙げている。

 パンガシナン地方において日本人が原住民と交易を行っていたことが分かるが、さらにロアルカは報告の中で、同地方に「日本の港(Pueto de Japon)」と称される港があり、スペイン人や原住民が住んでいることを伝えている。 

 1618年にフィリピン総督に提出された「フィリピン諸島報告」によれば、パンガシナン州内の良港の一つにアゴーという港があり、俗に「日本の港」と称している、とされている。ここから、ロアルカが伝えたパンガシナン地方の「日本の港」が、すなわちアゴーであったことが分かる。同報告によれば、アゴーは日本人がフィリピン諸島で占拠した最初の港で、スペイン人たちはアゴーの地で初めて日本人に会ったのだという。

アゴーでの日本人の交易

 これらスペイン人の史料から、日本人はルソン島のパンガシナン地方に古くから(少なくともスペイン人来航以前から)来航して交易活動を行っていた。彼らはついにはアゴーの港に占拠在住し、これにより「日本の港」の俗称が生まれたものとみられる。なお、1618年の「フィリピン諸島報告」などによれば、パンガシナン地方における日本人の主要な目的は、同地方で産出される鹿皮およびであったようである。1642年の話ではあるが、二人の日本人金採掘師がアゴーで働いていたという記録も残されている。

アゴーの位置

 「日本の港」と呼ばれたアゴーの位置は、当時のパンガシナン地方にアゴーと呼ばれる港が二つ以上あり、はっきりとはしていない。この中で岩生成一氏は現在のアグノ河の河口にあったと推定している。

 1574年、日本人の副将「シオコ」とともにマニラを攻撃した海賊の林鳳は、スペイン人守備隊に撃退された後にこのアグノ河の河口から上流1リーグの地に城塞を築き、輩下の中国人、日本人とともに2ヶ月以上篭城している。あるいは「日本人の港」アゴーの存在が背景にあったのかもしれない。

神社・寺院

人物

  • 林鳳:中国人海賊。

商品

城郭

その他の関連項目

参考文献

  • 岩生成一 「呂宋日本町の盛衰」(『南洋日本町の研究』 岩波書店 1966)
  • 的場節子 「日本人の南方進出と日西遭遇」(『ジパングと日本 日欧の遭遇』 吉川弘文館 2007)