鮭(越後)

さけ

 越後国、特に下越の三面川や荒川などで採られ、越後の特産として京都方面にも輸送された鮭。

 平安中期成立の『延喜式』には「鮭内子(ここもり)」(卵入りのサケ)、「氷頭(ひず)」(頭頂部の軟骨)、「背腸(せわた)」(中骨周辺の血の固まりの塩辛)など加工された鮭が越後から貢納されたことが記されている。また11世紀後半に成立した『新猿楽記』にも、「受領ノ郎等」(国司の従者)が集めた諸国の土産のリストの中に「越後ノ鮭」がみえる。

 永万元年(1165)、瀬波川(三面川)で採れる鮭は、国家の貢納物であるとして、城太郎資永の濫行の停止を命じる院宣が出されており、鮭が中央においても重視されるとともに、その漁場が下越の三面川であったことが分かる。また『吾妻鏡』によれば、建久5年(1194)二月、佐々木盛綱が源頼朝に生鮭を献上しているが、これは彼の領地である越後国加地荘(現・新発田市)のものであるといわれる。

 鎌倉期でも、越後の鮭は畿内に運ばれており、建暦二年(1212)、敦賀気比社の所当米等注進目録によれば、越後からは鮭が納められることになっていた。 

 その後、文禄三年(1594)の色部家老臣連署知行定納覚によれば、岩船郡には小物成として「浦役銭」や「酒役」、「藍役」のほかに「荒川鮭役」が課されており、岩船郡の荒川でも鮭が採られていたことがわかる。役が賦課されていることからみて、鮭が戦国期においても同地域における重要な産物であったことがうかがえる。

市場・積出港

参考文献

  • 金子達 「第4章 第3節 検地と郡絵図」 (『新潟県史 通史編2 中世 1987) など