岩船
いわふね
内陸部からの河川が流れ込んでいた中世の岩船潟の入口に位置し、周辺物資の集散地とともに、潟を停泊地として日本海水運にも関わっていた港町。
岩船の名は南北朝期の建武年間の軍忠状に「岩船宿」としてみえ、この時期には街道の宿場町として成立していた。また平安後期、奥州平泉の藤原清衡が送った金、馬、檀紙などが岩船のある越後国岩船郡小泉荘とみられる「摂関家領小泉荘」で定使によって盗まれる事件がおこっており、陸運(あるいは海運)における岩船の機能はこの時期にまで遡る可能性がある。
戦国期の岩船の様子は、揚北(阿賀野川北岸地域)衆の有力国人・色部氏の『色部氏年中行事』(永禄年間(1558~1570)成立と伝えられる)からうかがうことができる。例えば岩船の中心である五日市や港湾部である横浜には合物屋がおり、昆布やニシンなど、明らかに日本海水運によってもたらされたとみられる北方の産物を扱っている。ほかにも両集落には「まけし」(曲師)とよばれる職人もおり、タライや柄杓、「なっとうはち」などを作っていることが分かる。
五日市には色部氏の御用商人的立場にあったとみられる布川氏が住み、年中行事の物資調達を担当しており、岩船が色部氏領において経済的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。
文禄三年(1594)の『色部氏差出』によると、岩船の町には百六十六軒の家があったと記載されている。
神社・寺院
- 岩船神社
- 諸上寺
- 本証寺
人物
- 布川
商品
- 鮭(越後):鮭は岩船郡の荒川で採られていた。
参考文献
- 市河高男 「中世後期の津・湊と地域社会」(『中世都市研究3 津泊宿』) 1996 新人物往来社