輪島(小屋湊)
わじま
能登半島の北端部に位置し、中世、日本海航路の要港として繁栄した港町。戦国期に成立したとみられる『廻船式目』に挙げられる「三津七湊」の一つにもみえ、全国的にも知られた港町であることが分かる。
輪島は戦国期以前は「おやのみなと(小屋湊)」 とみえ、中世文芸の舞台としてみえる。室町期に流布した古浄瑠璃の『ゆみつぎ』では、「おやのみなと」の人商人(奴隷商人)が登場し、小屋湊には博多から人買船がやってきている。また同時期の幸若舞曲の『信田』では、「おやみなと」で物資の中継取引や問丸を営む刀禰が登場し、毎年陸奥国外が浜から塩の商いにため、舟で商人が来航している。
これらの話は当然フィクションではあるが、当時の状況を反映したものではあると思われ、人買舟が盛んに往来し、陸奥や九州からも船が定期的に往来した輪島(小屋湊)の繁栄とその重要性を窺うことができる。
また文明八年(1476)の重蔵宮講堂造営の関わった職人の大半が輪島に住む大工、小工、鍛冶、塗師らであったように、輪島は多数の職人が居住する生産の拠点でもあった。天正十年(1582)、前田利家が輪島鳳至町の鍛冶屋に対し、従来からの諸役皆免を停止していることから、かつてはこのような職人集団に対し、領主が優遇措置をとり、輪島の産業を保護・育成していたことがうかがえる。