博多
はかた
天然の巨大な良港・博多湾に臨み、古代以来、日本屈指の国際貿易港として繁栄した港町。
平安期の博多
博多遺跡群では11世紀後半以降、遺構・遺物が爆発的に増加し、特に白磁を中心とした中国製輸入陶磁器が多量に出土するようになる。『今昔物語』等の文献史料からは、この頃から博多に宋人が多数居住していたことが散見する。彼らは博多綱首と呼ばれ、博多と中国を往復して交易を行った。
元寇と博多の要塞化
13世紀末、博多は元寇の戦禍により甚大な被害を受ける。この後、再度の侵攻に備えた鎌倉幕府によって水際防御のために博多湾岸に長大な石塁を築かれた。この石塁は16世紀まで博多の海岸線を画し、博多は石城府とも呼ばれる要塞都市としての側面を持つことになる。
宗祇の見た大都市博多
元寇の戦禍から復興した博多は室町期に再び繁栄を極める。文明十四年(1480)、博多を訪れた連歌師・宗祇は「沖には大船多くかゝれり。唐人人もや乗けんと見ゆ。」「仏閣僧坊数も知らず、人民の上下門を並べ、軒を争いて、その境四方に広し。」と記す。多くの船舶や外国人が行き交い、多数の寺院と町屋が広がる大都市博多の様子をうかがうことができる。
室町・戦国期の国際貿易
室町期の博多の繁栄の背景には、広域に展開する国際貿易があったとみられる。応永十九年(1412)、博多にはジャワ(パレンバン)の使人・亜列、陳彦祥が滞在しており、出土品にもベトナムやタイの陶磁器がみられるなど東南アジア方面との貿易が拡大している。これは琉球を経由した南海貿易の一端とみられ、博多では琉球の銅銭「金円世宝」も出土している。
また朝鮮貿易も拡大し、16世紀、朝鮮陶磁は日常品を中心に博多全体の出土陶磁器の一割を占めている。さらに日明貿易の面では、勘合貿易の基地であり、倭寇による密貿易の拠点でもあった。1592年以前成立の明の『日本風土記』には「我国海商聚住花旭塔(はかた)津者多」とみえ、博多に多くの明商人が集まっていたことが記されている。