周布
すふ
石見国周布川河口部に位置する周布城(鳶巣城)の城下町。周布城は中世周布氏が居城とした。同氏は安貞二年(1228)に益田兼季の子兼定が周布地頭職を安堵されたことに始まる。
中世の町は、周布城(鳶巣城)の東側平野部に存在したとされる。城下の街道(旧山陰道)沿いに集落が立ち、家の後ろは畑や水田になっていたと推定される。平野部には、土井・犬ノ馬場・市・市屋敷・市ノ前・居屋敷・市ウシロ・踊り場・札場・研屋敷・つづら屋敷・綱目・鍛冶屋前などの地名があったことが確認されている。
上記の地名のうち、「土井」と「犬ノ馬場」は、旧山陰道の西側に隣接する。「犬ノ馬場」は、犬追う物を行う馬場があったとみられる。「土井」は豪族の屋敷跡につくことが多い地名であり、周布氏の居館があった可能性がある。
また「市」や「市屋敷」、「市ノ前」などの市場に関連する地名も旧山陰道沿にある。同地では中世の遺跡や、青花片や青磁片も見つかっている。街道を東に進むと約2キロメートルで周布氏の外港、長浜に至る。
周布城麓でも中世後期の遺構が確認されており、土師器や青磁、青花、備前焼の欠片も出土している。このあたりは「カシヤマエ」や「カシヤ上ミ」、「カシヤ下毛」など「カシヤ(鍛冶屋)」関連の地名が多く、鍛冶屋の存在が考えられる。また家臣団の居住地とも想定できるという。「ツナメ(綱目)」の地名もあり、そこは船を綱で繋いだところだったのかもしれない。周布城の下に川が流れていたとの伝承もあるという。