志度
しど
讃岐国志度湾の奥に位置する港町。中世、東讃の水運基地の一つとなった。文治元年(1185)二月、屋島の合戦に敗れた平氏が志度に退いた後に長門に撤退しており、平安期からの海路の要港であったとみられる。また平安初期創建と推定される志度寺の門前町でもあった。
室町期の水運
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、志度を船籍地とする船が二回兵庫北関に入港していることが確認できる。積荷は米や小麦、大麦で、積載量も三十石以下であることから、当時の地域における水運基地としての役割はあまり大きくなかったのかもしれない。
市の賑わい
一方で志度寺境内で開かれる市はたいへん賑わっていた。文明五年(1473)八月、細川政国は禁制で院内での伯楽市(牛馬市)を停止している。市が境内の奥に拡大し、院内にも迫っていたことがうかがえる。同時にこの市では購入を強要する「押し買い」や賭博が行われたため、これらも禁止されている。
また文明十二年(1480)、志度寺華厳坊が九貫文(銭九千枚)を備前焼の壷に入れて埋蔵していた。僧侶にこれだけの備蓄を可能にする背景に志度の経済的繁栄があったものと考えられる。