瀬戸田
せとだ
高根島との水道部に面した生口島の北西部に位置する港町。周辺海域の水運の中核として栄えた。
生口小早川氏の港
南北朝期、小早川氏は庶子家の生口惟平に生口島を譲与した。これを契機に瀬戸田は小早川水軍の中核を構成する生口水軍や同氏直属船(生口船)の基地となり、同時に小早川氏領の外港として位置づけられる。
瀬戸田船の活動
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、二十三回六十八艘の瀬戸田船、及び生口船が兵庫北関に入港している。これら瀬戸田船の中には三、四百石積級、中には五百石積級の船もみられ、瀬戸田の水運力がうかがえる。
積載品は備後塩が合計一万六千六百石で、瀬戸田船の全運搬量の大半を占め、他の備後諸港と比べても圧倒的に多い。他にも米豆や小麦、赤鰯や鮑、、また中国山地から運ばれたと思われる金(鉄)も運んでいる。
備後塩はその量から生口島産だけとは考えられず、その他の品とともに瀬戸田に集められたか、瀬戸田船が集荷したとみられる。瀬戸田が周辺地域の水運の中核であったことがうかがえる。
瀬戸田町衆の活動
戦国期、瀬戸田の町衆らは活発に活動した。天文四年(1535)、瀬戸田の商人と思われる瀬戸田彦右衛門が厳島神社の回廊再建の寄進者としてみえる。また天文二十四年(1555)には檀越・生口隆平のもと瀬戸田の町衆が向上寺に梵鐘を寄進しており、町衆の繁栄と、彼らに占める向上寺の位置がうかがえる。