三国湊
みくにみなと
越前国の平野部を貫流する大河川・九頭竜川の河岸に位置した港町。中世、越前国の海の玄関口として日本海沿岸部はもとより、海外との交易でも栄えた。
既に7、8世紀、三国湊は渤海などの海外使節が入港する国際交流の場であり、また平安後期には九頭竜川流域の荘園年貢の積出港として利用され、越前の物流の中枢にあった。
嘉元四年(1306)、三国湊の住人らが「関東御免津軽船二十艘之内随一」の大船の積荷を押領する事件が起きており、この頃、日本海の要港として津軽との間で交易が行われていたことが分かる。
天正二年(1574)正月に織田信長は北庄の薬種商・橘屋に、「三ヶ庄」と一乗、端郷、そして三国湊に「唐人之座」と「軽物(生糸・絹織物)座」を認めている。唐人座、軽物座はともに輸入品を扱う座であったとみられ、三国湊はこのような唐物の輸入を担う国際港であったと思われる。『朝倉始末記』によると天文二十年(1551)には百二十人の唐人を乗せた明の船が三国湊に着岸しており、「唐人座」の存在を彷彿とさせる。
国際貿易は大型の船舶によって行われたと思われるが、一方で慶長十三年(1608)、三国湊の廻船問屋・森田弥五右衛門は、佐渡の金山奉行・大久保長安から六枚櫂船の船一艘が佐渡において無役で営業してよいという許可を得ている。三国湊が「ハガセ」のような中型船により日本海沿岸各地と結びつく港でもあったとみられる。