松山(備中)
まつやま
中世における備中国屈指の要城・松山城の城下町。備中を南北に貫流する高梁川と支流の成羽川とが合流する地点の北側に広がる盆地に形成されたとみられる。松山の地は南北と東西の街道が交差し、また高梁川の水運も抑えることができる水陸交通の要衝であった。そのため、中世を通じて松山は守護や守護代など備中の有力者の拠点とされた。
三村氏までの松山城主
松山に最初に城が構えられたのは鎌倉期で、秋庭重信が大松山に築城したことに始まる。南北朝期には備中守護・高師秀が松山城に入って守護所となった。その後、守護代の秋庭氏が城主となっていたが、永正六年(1509)に備中守護代として上野信孝が松山城に入城。信孝の子・頼久は戦乱の中で荒廃した備中安国寺(後の頼久寺)を修復再興して寺領を寄進したという。
天文二年(1533)、出雲の尼子氏と結んだ庄為資が松山城を攻略。しかし為資の子・高資の代には尼子氏が衰えたこともあり、永禄四年(1561)に毛利氏と結んだ成羽の三村家親が松山城を陥落させて松山を支配下に置いた。
高梁川の舟運
松山から高梁川を上流にさらに遡ると東寺領の新見荘があり、京都の東寺と新見荘の間を使者が頻繁に往復していた。応永八年(1401)十一月の東寺代官の支出帳簿には「西阿知へ船賃」として百文が計上されているので(「備中国新見松領家方所下帳」『教王護国寺文書』)、高梁川河口の西阿知までは川舟が利用されていたようである。
「備中国新見荘使入足日記」によると、永禄九年(1566)九月二十一日に新見から京都へ向かった使者が、いったん松山に出て休み、そこから瀬戸内海に出て塩飽へ渡っていることが分かる。この使者も川舟を利用したとみられることから、松山は当時の高梁川舟運の宿場的な機能を担っていたのかもしれない。
備中兵乱による戦禍
天正二年(1574)、家親の子の三村元親が毛利氏に叛くと松山は再び戦禍にみまわれる。毛利勢は三村方の諸城を攻略しながら松山に迫り、天正三年三月には「松山麓」までの放火と麦薙が命じられている。『高梁市史』によれば、麓(城下)での城主の居館である「御根小屋」でも激しい戦闘が展開されたという。平時には「御根小屋」の周辺に家臣団の屋敷などがあり、町人、職人なども住んでいたのだろう。天正三年五月、松山城は陥落。城主の元親は六月二日に城下の松蓮寺で切腹して果てた。
毛利氏の重要拠点
毛利氏の直接支配下に置かれた松山は、以後、同氏の東方戦線の重要な兵站拠点となった。天正十年(1582)に毛利氏と羽柴秀吉の講和が成立した後も、毛利側は秀吉に対して松山の保有を強く主張して折衝を重ねており、天正十二年の冬にこれが秀吉側に認められている。
この背景には松山の戦略的重要性があった。『高梁市史』では、毛利氏が固執した理由の一つとして、備中・備後の北部山地で生産される鉄資源を挙げている。北部からの輸送の大動脈は高梁川舟運であり、その基地である松山を明け渡すことで、有利な経済的条件を失いたくなかったのであろう、と推測している。