西阿知(西宛)
にしあち
備中国の大河川・高梁川の中世における河口部に位置する港町。水運の拠点として物資集散地を担った連島に対する同河川流域の物資集積地として発展した。
交通の要衝
西阿知には少なくとも永享四年(1429)の段階で市が立ち、「西阿知ノアキント(商人)」が存在していたことが史料上にみえる。また高梁川上流の荘園・新見荘の関係資料の中には、東寺の使者が西阿知に滞在していることや、「西阿知へ船賃」とか「西阿智在津要脚」とみえており、西阿知が宿場、港として機能していたことが分かる。
新見荘の年貢輸送には、京や堺など畿内の商人が関わっており、彼らも頻繁に西阿知を往来したことが推定される。別の史料では西阿知に倉が存在し、年貢米の売れ残った分を保管する機能があったことがわかっており、西阿知が新見荘など高梨川流域の物資集積地として地域流通に大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
西阿知の水運
文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』には西阿知は「西宛」としてみえ、同船籍船二隻が小島塩や大麦、紙、米などを積載して兵庫北関に入港している。ここから西阿知の水運はそれほど発達していないことがわかるが、西阿知の対岸には計四十五隻の入港が確認される連島があり、西阿知に集積された物資は主に連島船によって輸送されたものと思われる。