常楽寺
じょうらくじ
近江国琵琶湖の東南岸のやや内陸にあり、水路によって琵琶湖水運に結節した港町。観音寺城や城下町・石寺の外港を担ったとみられる。おそらく南北朝期から近江守護・六角氏のもとで開発が行われており、史料上では天文四年(1535)に「常楽寺船人」がみえることから、港湾機能があったことが分かる。
水陸交通の要衝
常楽寺は美濃と京都とを結ぶ街道の宿場町でもあったとみられる。『信長公記』によれば元亀元年(1570)から安土築城前年にあたる天正三年(1575)までの間に、五回の宿泊ないし滞留が確認できる。このうち天正三年(1575)四月二十七日の記事では、明智光秀が坂本から船で佐和山に向かう途中、風が出たため、常楽寺に上陸しており、港としての常楽寺が確認できる。
相撲大会
また元亀元年(1570)三月三日、織田信長は常楽寺に近江国中の相撲取りを集めて、相撲大会を行い、優勝した六角氏旧臣の一族を「御家人」に取り立てている。これには政治的儀式の意味合いもあったとみられ、その場所に選ばれた常楽寺の六角旧領における重要性がうかがえる。
安土城下町へ
織田氏のもとで常楽寺の東北に安土城の築城がはじまると、常楽寺はその城下町を構成する。現在の復元調査によると、安土城隣接地区が町建設の際に新たな地割りに作り直されているのに対し、常楽寺周辺は旧来の地割りのままとなっている。このことから常楽寺に以前から発展した町場があったことが推定されている。