石寺

いしでら

 南近江の戦国大名・佐々木六角氏の本拠城である観音寺城の城下町。同氏の隆盛とその経済政策のもとで楽市が立てられるなど南近江の経済の中心として栄えた。

街道の宿場

 石寺は京都と美濃を結ぶ中山道の宿駅の機能ももっていたとみられる。天文七年(1538)、大徳寺の使僧の算用状には「四十八文、ハタコ(旅籠)観音寺宿」などとあり、また『言継卿記』弘治二年(1556)九月十二日条にも「観音寺之麓石寺宿迄来了」とある。

観音寺城の城下町

 観音寺城は南北朝期から使用が確認される。その城下町である「石寺」の初見は、文明元年(1469)八月の「山内政綱感状」にある「石寺合戦」であり、この頃までに城下町としての形成が進んでいたとみられる。六角氏の権力が隆盛を迎えた16世紀前半に石寺は最盛期を向かえ、天文二年(1533)には「石寺のくきぬき(釘貫=防衛施設的な門)」のための材木調達が行われるなどインフラ整備が本格的に行われている。

六角氏の経済振興

 また石寺の内には広域流通に携わった保内商人の拠点とみられる「保内町」も形成されていた。さらに天文十八年(1549)、枝村惣中への書状の中で、「石寺新市」は「楽市」であることが示されている。このように石寺では六角氏による経済振興策がとられており、流通の拠点や活発な市場としての繁栄が推定される。しかし永禄十一年(1568)の織田氏による六角氏の駆逐以後、石寺は衰退に向かい、後に安土や八幡などに吸収されたとみられる。

城郭

  • 観音寺城

参考文献

  • 小島道裕 『城と城下 近江戦国誌』 1997 新人物往来社