萩
はぎ
長門国の北岸部、阿武川下流の松本川と橋本川にはさまれたデルタ地帯に位置する港町。同地域の日本海水運の拠点を担ったと思われる。
石見国人の水運
室町・戦国期、萩には石見国西部の有力国衆・吉見氏と益田氏の所領があった。吉見氏、益田氏はともに萩沖の見島などにも所領をもち、朝鮮半島にも使者を派遣するなど自ら水運に関与していたことが知られている。萩はそのような両氏の日本海水運の拠点の一つとなっていたものと思われる。
吉見氏の拠点
弘治元年(1555)の厳島合戦以降、毛利氏に属して勢力を拡大した吉見氏は益田氏萩領を接収し、萩における支配を固めていく。元亀元年(1570)、吉見正頼は家督を広頼に譲って、萩の指月山善福寺に隠棲し、後には広頼も指月山に隠居している。さらに関が原合戦後、吉見氏は萩に本拠を移しており、吉見氏が萩を本拠・津和野に次いで重視していたことがわかる。
大友水軍・若林氏への空手形
また永禄十二年(1569)、周防合尾(秋穂)浦に渡海侵攻した大内輝弘は、十月、この時活躍した大友氏警固衆・若林氏に萩に五十石の所領を与えると約束している。若林氏は大友氏に属す警固衆の中でも中核的な存在であり、萩に拠点を持ち日本海水運にも関与する目的があったとも推測される。
海外との関わり
16世紀末、萩の東に隣接する小畑に唐船が入港している。同じ頃に中国で著された『日本風土記』にも「番記」(萩)の名がみえ、国際的にも知られた港町であったことがうかがえる。