富山浦(釜山浦)

ぷさん

 対馬対岸の朝鮮半島南部に位置する港町。中世、三浦の一つとして日本の朝鮮貿易の窓口となった。 太宗七年(1407)以前、朝鮮政府が興利倭船(日本の交易船)の到泊港を富山浦と薺浦に限定したことで倭人の居留が始まる。

三浦での倭人の増加

 当初倭人の滞在は使節や交易のためだった。しかし1420年代半ば以降、恒居倭(居所を構えて長期間居留する倭人)の数は朝鮮側の危惧をよそに増加していく。朝鮮側の調査によれば世宗二十五年(1494)時点の富山浦の人口は127戸・453人。三浦最大の薺浦にいたっては347戸・2500人と三浦を統括する宗氏の本拠・対馬府中をしのぐ規模であったことが分かる。

倭人たちの活動

 富山浦をはじめとする三浦には興利倭船が入港して交易を行っており、対馬や博多などとは密接な人の往来があった。また明応五年四年(1496)九月に「ほうらいふさん浦粟屋太郎右衛門国久」が厳島神社に寄進を行っており(「厳島神社廻廊棟札写」)、朝鮮貿易に関わる日本各地の港と結びついていたとも考えられる。一方で恒居倭の中には朝鮮民衆と交易を行い、あるいは掠奪にはしる者や、王都・漢城の「商富大賈」と禁物の密貿易を行う者もおり、朝鮮政府は対応に苦慮している。

唯一の対日本交易港

 中宗五年(1510)、三浦の乱の失敗により、恒居倭は対馬へ撤退する。2年後に対馬からの通行は許されるが、到泊港は薺浦に限定され恒居倭は廃止される。富山浦は中宗十六年(1521)、到泊港に加えられ、明宗二年(1547)に薺浦が停止されて以後は朝鮮への唯一の玄関口となる。

神社・寺院

  • 見江寺

人物

  • 栗屋国久:安芸国の厳島神社に寄進した商人。対馬出身の商人か。

商品

城郭

  • 釜山浦城

参考文献

  • 関周一 「朝鮮三浦と対馬の倭人」 (小野正敏・五味文彦・萩原三雄 編『中世の対外交流 場・ひと・技術』 高志書院 2006)