地方水軍呉衆の興亡 第3回 波多見島紛争史

警固屋・高烏台から音戸の瀬戸を望む。
警固屋・高烏台から音戸の瀬戸を望む。

 現在の広島県倉橋島北東部にあたる地域は、かつて波多見島と呼ばれ、対岸の警固屋とともに広島湾への東の玄関口である音戸の瀬戸を押さえることができる戦略上、経済上の要衝でした。しかしそのためか、この波多見島は、室町期から戦国初期にかけて、安芸国の有力国人の二氏がその支配をめぐって衝突を繰り返す紛争地でもありました。

 今回は、直接呉衆に触れることは少ないですが、この波多見島紛争とその結果が後々呉衆の運命に大きく影響していくので、若干詳しくみていこうと思います。

  なお、波多見島の紛争については『音戸町誌』の「第3章中世の音戸」で下向井龍彦氏が詳しく述べられており、以下、『音戸町誌』の記述を参考にまとめています。

竹原小早川氏の波多見島進出と野間氏

関係勢力図
関係勢力図

 応永二十八年(1421)正月、「公光」という人物が波多見島を実古という女性の「御後家御庵」料(一期分、つまり実古の一代に限る期限付きの領地)として竹原小早川弘景(初代)に譲渡します。この譲渡が竹原小早川氏の波多見島進出のきっかけとなります。

  さらに永享四年(1432)十二月、今度は「陽因」という人物が、援助の謝礼として、波多見島を一期分ではなく永代譲渡とし、「越智にて候人たち」(伊予の越智氏に出自を持つ者、つまり伊予衆)による領地の返還請求権も放棄するという内容の去文(さりぶみ)を小早川盛景(弘景の嫡男)に差し出します。これまで、弘景(初代)から盛景、盛景から弘景(2代)と波多見島を身内内で譲渡していた竹原小早川氏ですが、それにはあくまで「一期分」と注を付しており、この「陽因」の永代譲渡により、はじめて正式に波多見島を竹原小早川領として取得することになったのです。

  この波多見島は芸南海域における重要性はもとより、竹原小早川氏にとっては広島湾への橋頭堡としての価値もあったと推定され、同氏はここに瀬戸城を築くとともに守将として瀬戸氏(竹原小早川氏に帰順した乃美員平と推定されている)を配置し、勢力圏西境の重要拠点としていきます。

  さて、竹原小早川氏に波多見島を譲ったこの「公光」や「陽因」なる人物ですが、 『音戸町誌』で下向井氏は野間公光と推定されています。野間氏は南北朝期、伊予を追われるかたちで北上した伊予衆に出自を持つ、矢野の国人領主であり、野間公光は康正三年(1457)、大内氏の軍勢として、幕府方の沼田小早川氏と戦った際に戦死したことが史料にみえます。「陽因」についても、応永二十八年の「公光証文」の「御後家御庵」料と、永享四年の「陽因去文」の「一期」分という箇所が符合することから、公光と同一人物とみられています。

  つまり、竹原小早川氏の進出以前、波多見島を支配していたのは野間氏であり、野間公光は自分たちと同じく大内方であり、近親者とみられる実古の嫁ぎ先でもある竹原小早川氏に、いろいろあって波多見島を譲ることにしたわけです。そして、これにより野間氏と竹原小早川氏の同盟はよりいっそう強固なものとなるはずでした。

第一次波多見島紛争と呉衆

[史料6] 大内政弘書状案

就波多見事、支證令拝見候、無爲肝要之時節、御遠慮之次第、委細承候、尤不可過御計略候、恐々謹言、
      三月六日                          政弘(在判)
       小早河中務少輔殿
本書防州へ随身仕候間、案文寫留候、仍裏判仕候、爲後日候也、
      十一月三日(弘景花押)

[史料7] 仁保弘有・杉重隆連署状

就瀬戸事、可及弓箭之様、其聞候之間、當時旁以不可然候、殊依京都一左右、可有上洛用意候、仍各可同道申由、度々被申候キ、如此刻、弓矢可出来事、一向對當方儀候様、可被存候哉、爲申留、至呉昨日罷着候、明日矢野へ罷出候て、子細可申弘宣候、縦雖如何躰題目候、御堪忍候者、可令悦喜申候、具爲申進、神代勘解由左衛門尉、尤重隆(杉重隆)事、可参申候之處、於楊井公事取亂候間、不圖可罷歸候、子細猶逐而弘有(仁保弘有)可物語申候、恐々謹言、
      卯月十二日                          重隆(花押)
                                     弘有(花押)
      竹原殿(小早川弘景)御宿所

波多見島概略図
波多見島概略図

 [史料6]は大内氏当主・大内政弘の書状、[史料7]は大内氏奉行人の仁保弘有と杉重隆の連署状です。両方とも竹原小早川弘景(2代)に宛てたものです。

 この二つの史料は、内容から、同じ事案について出されたものであると推定され、時期は[史料7]で「可有上洛用意候、仍各可同道申由、度々被申候キ、」とあり、大内氏とともに上洛することが求められていることから、応仁元年(1467)であることが分かります。(ちなみに大内軍の出陣については第2回 室町期の呉衆を参照してください。)

 史料から分かる状況を簡単の述べると、野間氏と竹原小早川氏の軍勢が波多見島において一触即発の状況にあり、大内氏は両陣営に自重を求めるとともに紛争の調停を行うため家臣を派遣しています。野間公光が願った両氏の友好はここで完全に崩壊したのです。

  野間氏が波多見島侵攻に至った経緯は不明ですが、公光や実古の死去にともなう両氏の関係の冷却化とともに、野間氏にとっても波多見島は同盟強化の代償としてはあまりにも大きすぎたことがあると思われます。波多見島の重要性については、不幸にも、以後長期にわたって続く両者の抗争が証明していくことになります。

  状況を踏まえて[史料6]をみると、大内政弘が「支證令拝見候」と言っていることから、野間氏の波多見島侵攻を知った小早川弘景がすぐさま「支證」(証文)、つまり野間氏の先代である野間公光の去文を政弘に提出して、自分たちの波多見島領有の正当性を訴えたものと思われます。

  四月に入ると、[史料7]に「可及弓箭之様」とあるように、事態は前述したような一触即発の状況へと悪化しています。そんな中、大内氏の調停使として仁保弘有、杉重隆の両人が派遣されてきます。

  仁保弘有、杉重隆の一行は四月十一日に呉に到着し、ここからこの連署状を小早川弘景のもとに送り、その後、矢野の野間弘宣のもとに向かっています。このことから、おそらく呉で両陣営(あるいは竹原小早川側のみ)の代表者を召喚しての調停会議が行われたと思われます。

 連署状では「弓矢可出来事、一向對當方儀候様、可被存候哉」とあるように、軍事衝突は大内氏への敵対行為だとして、強い調子で小早川弘景を制止しており、同内容のことが代表者に布達されたと推定されます。

  さて、大内氏による調停の場所が呉であったということですが、これは呉が大内氏直属の水軍である呉衆の本拠で、両陣営の中間に位置していたことが理由だと思われます。この時の呉衆の動向についてはよくわかりませんが、水軍である呉衆が対岸の要衝である波多見島の情勢に無関心であったとは考えられませんので、大内氏を通じて何らかの働きかけはしていたものと思われます。仁保弘有らが呉にやってきたのは、そのあたりも関係しているのかもしれません。

 このときは、竹原小早川、野間の両陣営は大内氏の調停が容れて撤兵に応じたものと思われます。そして六月、ついに京都では応仁の乱が勃発し、七月、呉衆が先陣をつとめ、野間氏、竹原小早川氏ら安芸の国人の軍勢も加わわった大内勢は上洛し、西軍の主力として活動をはじめます。しかし、波多見島では、なおも火種がくすぶっていました。

[史料8] 大内道頓書状

波多見嶋瀬戸城事、思外儀候、都鄙大儀之弓箭時節候間、先被捨置候て、尤可然候、京都一途静謐候者、政弘可申談候、彌御堪忍肝要候、委細猶両人可申候、恐々謹言、
      十一月十九日                          道頓(花押)
        小早川中務少輔殿

 [史料8]は、上洛中の大内政弘の留守を預かる大内教幸(道頓)が竹原小早川弘景に宛てた書状です。冒頭に「波多見嶋瀬戸城事、思外儀候」(波多見島と瀬戸城の事は思いもよらなかった)と言っており、これまでの波多見島の経過から、野間勢が京都への軍勢動員で手薄になった波多見島に再侵攻して、瀬戸城を含む波多見島を制圧したことが分かります。

 竹原小早川氏は、この野間氏の侵攻について、すぐさま大内教幸に訴え、これに教幸が応えて小早川弘景に書状を出しているのです。しかし、その内容は、今現在京都の情勢が最優先なので「彌御堪忍肝要候」、つまり「我慢しろ」というものでした。

第二次波多見島紛争と大内氏による地域の平和

  応仁元年(1467)十一月以降、波多見島と瀬戸城は野間氏の支配下に置かれます。竹原小早川氏はその後、大内氏重臣の「陶尾州」(陶弘護)に訴え出ましたが、これも却下されたようです([史料10]参照)。

 もともと竹原小早川氏は、応仁の乱への動員もありましたが、大内氏勢力圏の辺縁に位置し、本家筋の沼田小早川氏をはじめとする反大内(幕府)方勢力と緊張関係にあったことから、軍事的にも外交的にも波多見島で強く出られないといった事情があったものと思われます。

 しかし、明応二年(1493)四月、沼田小早川敬平が、大内氏との長年の敵対関係を解消したことで竹原小早川氏をとりまく情勢は大きく変化します。

[史料9] 内藤弘和書状

就御本地波多見嶋内瀬戸城去五日被切取候儀、御注進之通、致披露候、仍被申候之次第、別帋令申候、誠千秋万歳、猶々思食儘、両要害入御手候、御太慶此節候、自是己前進使僧候、定参着候哉、何様御祝言自是態可申入候、京都へも申上候間、親候者可爲祝着候、爰元儀委細申御使候、恐々謹言、
      十一月廿七日                        弘和(花押)
       竹原殿
           御報

[史料10] 相良正任岡部武景連署奉書

竹原安芸守殿書状、ならびに太刀一腰友重致披露候、御祝着候、仍御太刀一腰経清金覆輪被遣候、自其御懇可有御返事之由、被仰出候、随而波多見嶋事、先年以陶尾州被申候時、御約束之次第無餘儀候、委細御心得之由候、於于今者、野間刑部少輔ら一味候者、可然被思食候、両家之不快候者、爲御當家不可然候、能々廻遠慮候様、可有御調法之由候、恐々謹言、
      十一月廿七日                       武景(花押)
                                   正任(花押)
                                  相良遠江守
                                  岡部 十郎
        内藤彌七殿                        武景

 沼田小早川氏と大内氏の修好で、竹原小早川氏は軍事的緊張から解放され、さらに三者間の紛争解決交渉を通じて外交的に波多見島侵攻を可能にする状況を作り出すことに成功します。明応二年(1493)十一月五日、波多見島に侵攻した竹原小早川氏の軍勢はついに瀬戸城を攻略し、波多見島の奪回を果たします。

  [史料9]は竹原小早川弘平の報告を在京中の大内政弘に取り次いだことを知らせる内藤弘和の書状であり、[史料10]は、報告を受けた大内政弘の意向を内藤弘和に伝える相良正任と岡部武景の連署奉書です。

  [史料9]で内藤弘和は「御太慶此節候、自是己前進使僧候」と言って、祝賀の使僧を竹原小早川氏に派遣したことを知らせています。また[史料10]でも、大内政弘からの祝辞とともに、竹原小早川氏から贈られた戦勝記念の太刀(銘・友重)への返礼として太刀が下賜されています。今回の竹原小早川氏の軍事行動が大内氏の了解を取り付けてのものであったことが分かります。

  また、この合戦には大内氏陣営に加わった沼田小早川氏の家臣である国貞敬国が援軍として奮戦しています。竹原小早川氏による波多見島侵攻が周到な根回しと計画のもとで実行されたことがうかがえます。

  なお、大内氏の了承や沼田小早川氏の参戦の背景には、かつて竹原小早川氏が瀬戸城の守将としていた瀬戸氏(乃美氏)の旧領で、三者の間で長年にわたり懸案となっていた乃美郷の帰属問題があったといわれています。が、このあたり、かなりごちゃごちゃしているので、割愛。

  このようにして、波多見島を回復した竹原小早川氏ではありましたが、しかし大内氏にとっては、竹原小早川氏が攻撃した野間氏もまた、安芸国における重要な大内方勢力でした。「史料10]で「両家之不快候者、爲御當家不可然候、能々廻遠慮候様、可有御調法之由候」と述べ、両氏の対立は大内氏にとって好ましくないので、よく考えて協調する様にと釘もさしています。

  これは野間氏に対する配慮であったと思われますが、逆に波多見島を奪われる形になった野間氏の反発は相当なものがあったようでした。

[史料11] 大内義興書状

對内藤掃部助御状令被見候、仍波多見嶋中分事、任申之旨一城被去渡候之由、近日注進到来候、連々無等閑之次第彌祝着候、早々可申候之處莵角遲々慮外候、此等之趣尚弘春可申候、恐々謹言、
      六月十日                        義興(花押)
       小早川中務少輔殿

  [史料11]は大内政弘から家督を継いだ義興が、竹原小早川弘平に宛てて出した書状です。この書状は「此等之趣尚弘春可申候」とあるように、内藤弘春によって届けられていることから、弘春が内藤氏の家督を継いだ明応四年(1495)頃のものと推定されています。

 ここでは第二次波多見島紛争についての大内氏による最終的な仲裁条件が示されています。 その仲裁案とは、波多見島を竹原小早川氏と野間氏で「中分」、つまり半分に分割するというものでした。また竹原小早川氏が瀬戸城を明け渡していることから、野間氏への同城の譲渡も含まれていたものと思われます。竹原小早川氏は瀬戸城の放棄と引き換えに波多見島半分の領有を正式に認められたわけです。

  竹原小早川氏に瀬戸城の明け渡しまで強いるこの仲裁案は、おそらく野間氏の猛烈な抗議の中で、大内氏が竹原小早川氏に呑ませることの出来るぎりぎりの妥協案だったものと思われます。竹原小早川氏、野間氏、ともにこの仲裁にどの程度納得していたかは不明ですが、ともあれ、第二次波多見島紛争は大内氏の裁定でとりあえずの終結をみることになりました。なお、このときの波多見島の分割が近世の渡子島と瀬戸島のもとになったといわれています。

  これまでみてきたように、波多見島の紛争において竹原小早川氏は、軍事行動に先立って、いつも大内氏にうかがいを立てています。大内氏もまた竹原小早川、野間の両氏の対立の激化については憂慮しており、なんとかこれを抑制する方向で調停に入っています。

  安芸国の、少なくとも呉衆周辺の一応の平和と均衡は、この事例のように大内氏の介入によってなんとか保たれていたわけです。

波多見島紛争関係略年表

応永二十八年(1428)正月
野間公光、波多見島を実古の一期分として竹原小早川弘景(初代)へ譲渡する。

応永三十四年(1427)十一月
弘景、波多見島を一期分のまま嫡男の盛景へ譲与する。

永享四年(1453)
小早川盛景、波多見島を嫡子の弘景(2代)に譲渡する。

享徳三年(1454)十月
野間公光(陽因)、小早川盛景に援助の謝礼として波多見島を永代譲渡し、伊予衆による返還請求権の放棄を約束する去文を差し出す。

康正三年(1457)
大内勢の野間公光、沼田小早川領に侵入して毛利豊元に討たれる。

寛正三年(1462)
沼田小早川氏の庶家の乃美員平・家平父子、竹原小早川氏を通じて大内方に内応し、乃美郷から追放される。

文正元年(1466)
乃美員平・家平父子、竹原小早川氏に臣従して波多見島瀬戸城の守将となり、「瀬戸」を名乗る。
野間弘宣、波多見島に出兵する。

応仁元年(1467)三月
大内政弘、竹原小早川氏に自重を求める。

同年四月
大内政弘、杉重隆と仁保弘有を波多見島の紛争を調停するために派遣する。

同年六月
応仁の乱が勃発し、大内政弘、呉衆ら傘下の諸国人を率いて上洛する。

同年十一月
野間氏、再び波多見島に侵攻し、瀬戸城を占拠する。
竹原小早川氏、これを大内氏に訴えるが、大内教幸から我慢しろという書状を受け取る。

明応二年(1493)四月
在京中の沼田小早川敬平、同じく在京中の大内政弘と親類契約を交わし、大内氏陣営に加わる。
敬平、帰国して乃美郷の紛争解決にあたる。

同年十一月五日
竹原小早川氏、沼田小早川氏の援軍とともに波多見島瀬戸城を攻略する。

明応四年(1495)十一月
大内義興、波多見島紛争の最終的な仲裁案を提示。竹原小早川弘平に瀬戸城を含む波多見島の半分を野間側に譲渡させる。

文亀二年(1502)十二月
竹原小早川弘平、林掃部助に波多見島「東分」行恒名を給与する。

主要参考文献

  • 下向井龍彦 「第4節 竹原小早川氏と矢野野間氏の抗争」 (『音戸町誌』 2005)

史料出典

  • 史料6
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・三九六号
  • 史料7
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・三九七号
  • 史料8
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・三九八号
  • 史料9
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・四二〇号
  • 史料10
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・四二二号
  • 史料11
    『大日本古文書 小早川家文書之二』 小早川家証文・四〇九号