地方水軍呉衆の興亡 第2回 室町期の呉衆

室町期、大内水軍としての呉衆

天文二十三年(1554)以前の芸南地域勢力図
天文二十三年(1554)以前の芸南地域勢力図

  前項では、山本氏の伊予から呉への北上について述べました。呉衆が形成されたのも南北朝期であると考えられ、動乱に対処すべく、最大勢力の山本氏を中心に在地系小領主の警固屋氏や檜垣氏らが結束して連合したものと思われます。

  そして貞治五年(1366)、後に呉衆が属す周防大内氏も南朝方討伐を名目にして安芸国への進出を開始し、やがて東西条代官を西条・鏡山城に置いて東西条(西条盆地から黒瀬川流域と広湾から三津湾に至る沿岸地域)とその周辺地域を勢力下におさめます。

  『鹿苑院殿厳島詣記』には、康応元年(1389)三月十日、音戸瀬戸にさしかかった足利義満一行のもとに多賀谷某が来て、大内義弘遅参の理由を伝えたことが記されており、蒲刈(あるいは倉橋)の多賀谷氏がこの頃には伊予を離れて大内氏に従っていることが分かります。多賀谷氏と同じくこの頃には呉衆も大内氏の支配を受け入れ、被官化していたものと思われます。

[史料2] 寛正二年(1461)大内氏掟書(抜粋)

安芸国
東西条  七日 請文十九日
日高島  七日 請文十九日
呉 島  五日 請文十五日
蒲刈島  六日 請文十三日
能美島  四日 請文十三日

 [史料2]は大内氏が「御分国中」所々から同氏の本拠・山口へ訴訟のために出頭すべき日限を示す法令を定めたものです。これにより、三ヶ島衆がそれぞれ拠点とする呉(呉島)や蒲刈島、能美島が安芸国における大内氏分国に組み込まれていることが分かります。

 この時期、飛び地ともいえる東西条を支配し、安芸国で勢力を確保、伸張しようとする大内氏にとって、東西条と大内氏本国を海路でつなぐことができる呉衆や三ヶ島衆は極めて重要な存在であったといわれています。そして、呉衆の大内水軍としの活動が史料上で確認できるようになるのもこの頃です。

[史料3] 『経覚私要抄』応仁元年七月三日条

(前略)
     海上衆
大内殿 山名小弼殿 スエトノ(陶弘房) 杉右京亮殿 内頭(内藤)駿河殿 宮内殿
杉九郎次郎殿 安富左衛門大夫殿 江口兵庫助殿 見尾(仁尾)七郎殿、其外安藝  九州衆悉上洛、
伊豫河野殿 長門衆
    海賊衆先陣
ノウヘ(野上) クラハシ(倉橋) クレ(呉) ケコヤ(警固屋)  其外九州面々、五月十日、山口出陣、六月二日、周防野上マテ御付候、同三日、  屋内(柳井)ト申在所マテ出陣、同十三日、乗船一定候、社(屋代)ノ嶋陸(久賀)マテ  御付候、
(後略)

※ノウへ(野上)とあるが、ノウミ(能美)の誤りとされる。

 [史料3]は奈良の興福寺大乗院門跡経覚の日記である『経覚私要抄』の応仁元年(1467)七月三日条です。京都での応仁の乱に際し、西軍の山名宗全(持豊)の参戦要請に応じた大内政弘が周防、長門、筑前、筑後、安芸、豊前、石見、伊予の八カ国の軍勢を率いて上洛したときの軍勢の構成と出陣の経過が記されています。

 このうち、「海賊衆先陣」として挙げられているのが能美、倉橋、呉、警固屋の勢力であり、呉衆、及び能美氏、多賀谷氏(多賀谷氏には倉橋を拠点とする一族がいた)が大内水軍に組み込まれ、かつその中核的な存在となっていたことがうかがえます。

  上洛後の呉衆の活動を示す史料はありませんが、文明六年(1474)頃、倉橋多賀谷筑前守弘重が東西条鏡山城代官・安富弘範に対し、増援軍を率いて上洛するよう命じる大内政弘の命令を伝えているので、呉衆も京で合戦に参加したり、京都と周防、安芸間の情報伝達を担っていたと思われます。

転戦に次ぐ転戦

 文明九年(1477)、大内政弘は周防、長門、筑前、豊前の守護職と東西条などの支配権を安堵されて帰国しますが、その翌年には、留守中に小弐氏らに撹乱された筑前、豊前の支配を回復するため、両国への出兵を開始します。大内政弘とともに帰国したとみられる呉衆もまた、大内氏に従い九州へと転戦します。

[史料4] 『正任記』文明十年十月三日条(抜粋)

内藤弾正忠弘矩・同名六郎弘藤・同孫七護道・同名彦六弘遠・安富左衛門大夫行房・周布・福屋并呉・蒲刈・能美三ヶ嶋衆と并其外御馬廻一番衆内長門衆十八人事、被差遣花尾城詰口畢、

室町期、呉衆の転戦
室町期、呉衆の転戦

 [史料4]の『正任記』は大内政弘の祐筆であった相良正任が書いた文明十年(1478)十月の日記です。文明十年(1478)十月は大内政弘が豊前・筑前に出兵した時期であり、筑前で小弐氏らの勢力を駆逐した政弘は、内訌で追われた麻生弘家のかねてからの要請もあり、麻生家延の篭る筑前花尾城(現在の北九州市八幡西区花尾山)を攻撃します。

 この記事は、その際、花尾城攻撃のため問田弘衡とともに派遣された内藤弘矩の軍勢について記したものです。この中に「呉・蒲刈・能美三ヶ嶋衆」とあり、呉衆ら三ヶ島衆は内藤弘矩の指揮下で花尾城攻撃に加わっていたことが分かります。花尾城は洞海湾に近い位置にあり、三ヶ島衆は水軍を率いて軍勢や物資の輸送など側面的な支援にもあたっていたものと思われます。

 同じく『正任記』文明十年十月十八日条によれば呉衆の警固屋掃部助忠秀は十月十三日付けで「穂波郡吉隈拾石地 田数二町、山田美作守跡・嘉摩郡米房八町五段地 同人跡・同郡薦田村金丸十石地 田数二町 同人跡・同郡片嶋壱町地 片嶋四郎跡八町内」を新たに与えられており、花尾城攻撃の際の活躍によるものと思われます。また天文十四年(1545)七月二十三日、大内義隆が山本房勝に安堵した領地の中に「豊前国仲津郡貞末内参石五斗地」があり、山本氏が九州での戦功で得たものと思われます。

しかし、この花尾城在陣中、三ヶ島衆にはさらなる転戦が命じられます。

[史料4] 『正任記』文明十年十月三日条(抜粋)

内藤弾正忠弘矩・同名六郎弘藤・同孫七護道・同名彦六弘遠・安富左衛門大夫行房・周布・福屋并呉・蒲刈・能美三ヶ嶋衆と并其外御馬廻一番衆内長門衆十八人事、被差遣花尾城詰口畢、

 第1回 山本氏の北上でも若干触れていますが、文明十年(1478)当時、伊予国では惣領家の河野教通(通直)と予州家(庶子家)の河野通春が激しく対立しており、[史料5]は大内氏と結ぶ河野通春の使者が政弘のもとに援軍要請にやってきた時のものです。政弘はこの要請に応え、陶弘護や内藤弘矩らの重臣に三ヶ島衆の派遣が可能かどうか尋ね、可能という返答があったので、三ヶ島衆に伊予への渡海を命じています。

 『正任記』には、これ以前の十八日と二十日にも通春の使者が政弘を訪れたことが記されており、通春はこの時、大きな合戦で勝利し、伊予国内で優位に立っていたようです。

三ヶ島衆は、この命令の後、河野通春への援軍として伊予に渡海したと思われますが、以後の具体的な行動については明らかではありません。河野通春の動きもまたはっきりとはしませんが、体勢を立て直した惣領家方に劣勢を強いられつつ、文明十四年(1482)閏七月、湊山城で死去しています。おそらく呉衆もこの頃には帰国していたものと思われます。

主要参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)

史料出典

  • 史料2
    『広島県史』古代中世資料編Ⅰ P.561
  • 史料3
    『広島県史』古代中世資料編Ⅰ P.565
  • 史料4、5
    『山口県史』史料編 中世 P.334 P.356