河野 教通(通直)

こうの のりみち

 伊予河野氏の惣領家当主・河野通久の子。父親の代から続く庶子家(予州家)との抗争の中で惣領家の優位を確立した。

  文安元年(1444)ごろから庶子家・河野通春との対立が激しくなり、以後、長年にわたる抗争に突入する。教通が上洛中の寛正六年(1465)、通春方との講和にいたるが、その後まもなく応仁文明の乱が勃発する。

 教通は文明元年(1469)ごろに伊予に帰還したとみられ、この頃から西軍方として通春が上洛した隙を突いて庶子家方に敵対行動を取るようになる。

  この間、文明五年(1473)、東軍の足利義政から伊予守護職を得る(このとき通直と改名)など伊予国での惣領家の優位を固めた。通春の帰還後は大内氏の支援を受ける通春方に何度か大敗したものの、その間も石手寺の再興に取り組むなどその優位は動かなかったとみられる。

 明応九年(1500)、湯築城で病死した。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998