鉄甲船伝説

織田氏の新鋭艦は、世界初の装甲船か?

  天正六年(1578)十一月、大坂湾木津川沖において、九鬼嘉隆を将とする織田方は新造の大船七艘を中核とする水軍で毛利方水軍を迎撃し、この撃退に成功します(第二次木津川沖海戦)。
この時の大船七艘のうち、九鬼嘉隆が建造にあたった六艘は外側を鉄板で装甲した「鉄甲船」、あるいは「鉄船」であったという説がありますが、実際そのへんどうなのかということを若干整理してみたいと思います。

[史料1] 『多聞院日記』天正六年七月廿日条

堺浦へ近日伊勢ヨリ大船調付了、人數五千程ノル、横へ七間、竪へ十二三間モ在之、鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事々敷儀也、大坂へ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々

  史料1は、大和国(奈良県)興福寺の多聞院英俊の日記である『多聞院日記』の記事ですが、実はこれが新鋭艦が鉄板で装甲していたという唯一の根拠とされる史料です。

 さて、 この記事の中の「鐵(鉄)ノ船也」という箇所がありますが、これこそが鉄板による装甲がなされたという根拠となる部分です。続けて「テツハウトヲラヌ用意」とあることから、鉄炮の弾丸による貫通を防ぐ目的があったものとみられるので、鉄板による部分的な装甲が施されていたとも解釈できないことは無いと思われますが、実際にこの記事のみで船の艤装を推測するのはかなり無茶な話であるといえます。

 さらに英俊はこの時、船が着岸した堺には行っていません。記事内容は伝聞に基づくものなのです。記事中の横と竪(縦)の寸法比率(7:13)が船の形としてはかなりおかしいことことになっているのも、情報が不正確であった可能性を示しており、どこまで信用していいのかという疑問もあったりします。

次にこの船を実際に見学した人物による報告書をみてみます。

[史料2] 『耶蘇会士日本通信』パードレ・オルガンチノの都より發したる書簡

  當地の事は既に尊師に書き送りたるが、其後起こりしは昨日日本の重要なる祭日(盂蘭盆会)に信長のフネ七艘堺に着きたる事なり。右は、信長が伊勢国において建造せしめたる日本国中最も大きく、また最も華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり。予は行きてこれを見たるが、日本においてこのごとき物を造ることに驚きたり。信長がその船の建造を命じたるは、四年以来、戦争をなせる大坂河口にこれをおき、援兵、または糧食を搭載せる船の入港を阻止せんがためにして、これによりて大坂の市は滅亡すべしと思はる。
  船には大砲三門を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず、何となれば、豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲を除きては、日本国中他に砲なきこと、我らの確知する所なればなり、予は行きてこの大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大なる長銃を備へたり。
  (後略)

  史料2は、船の詳細を語るものとして、しばしば引用されているイエズス会宣教師・オルガンティノの書簡です。全文を引用すると長いので、抜き出して挙げています(全文は別項参照)。

  オルガンティノが実際に船を見学していることは「予は行きてこれを見たる」という箇所から分かると思います。「日本においてこのごとき物を造ることに驚きたり」や「これによりて大坂の市(石山本願寺)は滅亡すべしと思はる」という記述からは、いかに巨大で威容を誇る戦艦であったかがうかがえますし、大砲や長銃といった搭載兵器の詳細な記述もあります。

  しかし、肝心の装甲についての記述は無いのです。

  他に、件の船について記述がある史料としては、織田信長の直臣であった大田牛一が記した『信長公記』と『寛政重修諸家譜』にある九鬼家の家譜がああります。史料を引用すると長くなるので、 別項にまとめて挙げていますが、『信長公記』も「大鉄炮」(オルガンティノ報告での大砲)が、雑賀衆や毛利方水軍との海戦で威力を発揮したことは述べていますが、やはり装甲については一言も触れていませし、それをうかがわせる描写もありません。九鬼家の家譜も同様です。

  以上、いくつかの史料を検討してみましたが、結論としては織田氏の船が鉄板で装甲していたことを示す確たる史料は存在しないということです。

その他の史料

05.05.01
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主要参考文献

  • 鈴木眞哉 『鉄砲と日本人』 洋泉社 1997

史料出典

  • 史料 1
    辻善之助・編 『多聞院日記』第三巻 角川書店 1967 
  • 史料2
    村上直次郎・訳 渡邊世祐・注 『異国叢書』耶蘇会士日本通信・下 雄松堂書店 1928