鉄甲船(鉄船)
てっこうせん
天正六年(1578)六月、織田信長が志摩国の海賊衆・九鬼嘉隆に命じて伊勢国大湊で建造させた六艘の大安宅船に対する一般的な呼称。
大和国興福寺の多聞院英俊による『多聞院日記』に「鉄の船なり、テツハウ(鉄炮)とをらぬ用意、ことこと敷儀なり」とあり、ここから鉄板による装甲をほどこした戦艦、つまり「鉄甲船」であるとされる。
この「鉄甲船」を実見した宣教師・オルガンティノは、「王国(ポルトガル)の船に似たり」、「日本においてこのごとき物を造ることに驚きたり」とし、船には大砲三門が搭載され、「無数の精巧にして大なる長銃」を備えていたと報告している。また本願寺側も「彼の敵船早々に打ち果たされず候はば、当寺の落居は勿論に候」と狼狽しており、当時としては桁外れの火力・威容を誇る戦艦であったことが窺える。
『信長公記』によれば、「鉄甲船」を中心とする九鬼嘉隆の艦隊は紀伊半島を回航して淡輪沖で雑賀衆の水軍を破った後、十一月には本願寺に兵糧を運ぶ毛利方水軍と戦い、敵の旗艦一隻を大鉄炮で撃沈して敗走させたという。
ただ、毛利方水軍はこの海戦以降も石山本願寺に兵糧を運び込んでおり、「鉄甲船」は機動力の問題から、哨戒線をカバーできなかったとみられる。
また、鉄板による装甲については、そのことを示す史料が上記の『多聞院日記』の伝聞による記事のみで、実見したオルガンティノも建造した九鬼氏の史料も装甲について触れておらず、疑問とする説も有力である。