内海 貞明

うちのうみ さだあき

 15世紀前半頃の内海衆の一族。あるいは当主。広島藩が文政八年(1825)に編纂した『芸藩通志』にその名がみえる。

亀山神社の社殿。
亀山神社の社殿。

室町期の常廣城主

 『芸藩通志』巻八十一には内海村の八幡宮(現在の亀山神社)について、「亀山にあり、(中略)應永年間、當村常廣城主、内海貞明、今の地に移す、近村十村の民、同じくこれを祭る」とある。伝承が正しければ、内海貞明は室町期の応永年間(1394~1427)に内海の八幡宮を現在の亀山の地に造営したことになる。

 また巻八十三の「常廣城」の項には「内海村にあり、内海民部貞明、所居、」とある。城の北の谷間にある西福寺は、内海氏が大檀那であったといわれ、鎌倉末期にまでさかのぼる歴史を持つ。常広城は、おそらくは内海衆の本城として機能していたのだろう。

Photos

貞明によって八幡宮が造営された亀山。

関連人物

その他の関連項目

  • 常広城:『芸藩通志』には内海貞明の居所とある。

参考文献