島 吉利

しま よしとし

 能島村上氏の重臣。越前守、中務少輔。戦国後期、村上武吉に仕えて活躍した。本太城主として能島村上氏の備前児島領を統轄し、外交面では同氏と大友氏の仲介を担った。

周防大島(屋代島)東端の伊保田にある島越前守(吉利)の顕彰碑。文化八年(1807)に吉利の子孫らによって建立された。
周防大島(屋代島)東端の伊保田にある島越前守(吉利)の顕彰碑。文化八年(1807)に吉利の子孫らによって建立された。

備前児嶋で本太城を守る

 永禄十一年(1568)、毛利方として備前児島西端の本太城に在城していた際、「阿州衆」(阿波三好氏)の急襲を受ける。十一月十四日付で村上武吉から吉利に出された感状によれば、この篭城戦で吉利の軍勢は敵陣を切り崩し、香西又五郎ら敵将を討ち果たした。

 永禄十三年(1570)三月、武吉は吉利に本太城付近の所領を打ち渡しており、これが先述の篭城戦の恩賞とみられる。また能島村上氏の勢力が児島の所領支配にまで及んでいたことを窺える。

毛利氏の攻撃

 しかし、元亀二年(1571)、能島村上氏は一転して豊後大友氏、尼子氏ら反毛利陣営に加った。吉利も尼子方の美作三浦氏家臣・牧尚春から情勢に関する書状を得ている。このため三月、吉利の在番する本太城には村上亮康(因島村上)や備中の細川通董、三村元親らを動員した毛利方の軍勢が押し寄せた。毛利輝元が小早川隆景に宛てた四月六日付の書状によれば、同城は四月上旬には陥落した。

豊後大友氏との外交

 能島村上氏は天正四年(1576)には毛利方に復帰しているが、同氏は依然として大友氏との関係を維持していた。その仲介を吉利ら島氏が担っている。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、中務少輔が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かる。また島中務丞は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりしている。

関ヶ原合戦後

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦で西軍が敗れると、西軍に属した毛利氏の所領は大幅に削られた。これに伴って当時毛利氏に臣従していた能島村上氏の知行も周防屋代島など実質千石程度となってしまった。島吉利も村上武吉に従って周防屋代島に移ったらしい。

 能島村上氏は減少した知行高に対応するため家臣団を整理。吉利の子の中では、三男の吉方が残り、長男の吉知、次男の吉氏が暇をもらうこととなった。吉知、吉氏は武吉にあいさつもせずに立ち去り、立腹した吉利は以後、音信をしなくなったという。

Photo

吉利の顕彰碑が建立された伊保田の町並み。 吉利が仕えた村上武吉の墓塔。伊保田から7キロ程西の内入地区にある。

関連人物

  • 島吉知:吉利の長男。
  • 島吉氏:吉利の次男。
  • 島吉方:吉利の三男。
  • 村上武吉:能島村上氏最盛期の当主。

その他の関連項目

  • 小海城:大三島東岸の海城。島氏の本城。
  • 本太城:備前児島西端の城。 通称、天神ヶ鼻といわれる突出部に築かれた。

参考文献

  • 山内譲 『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997