薬師 宗慶

くすし そうけい

 戦国期、厳島の南小路に屋敷を構えて居住していた薬師(医者)。

有力な薬師

 天文十五年(1546)五月の薬師宗慶屋敷請文によれば、宗慶は厳島南小路にあった道善(厳島大願寺の下人)の知行する屋敷を預かっており、その「地領銭」として年間三百文の納入を大願寺に約束している。

 また宗慶は永禄四年(1561)の厳島社大鳥居造立の際に一貫文を拠出していることがみえ、居住地が社家衆の居住区であったことから、厳島社家に奉仕する有力な薬師であったと推定される。

厳島での薬種取引

  天文十二年(1543)頃、厳島客人社社家・棚守田右兵衛尉が法会の際に新しく薬座を出したい旨を大内氏に愁訴しており、宗慶が居住していた厳島では薬種が取引されていたことが分かる。厳島には薩摩や日向から唐荷(輸入品)を運ぶ京や堺の商人らが来航しているから、彼らによって輸入品である薬種が厳島にもたらされていたと推定される。

 また天文二十一年(1552)頃、堺商人・宗光は使者として「薬屋之与右衛門」を厳島に派遣しており、同じく堺商人とみられる与右衛門が以前から厳島に来航して商売をしていたことがうかがえる。

 このように、厳島に薬師が住んでいた背景には、厳島が上方の商人らを通じて薬種の入手やあるいは医療技術の導入が可能な環境にあったことがあると思われる。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 1978
  • 鈴木敦子「地域市場としての厳島門前町と流通」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000