木谷 宮内少輔

きだに くないしょうゆう

 竹原小早川家臣。小早川弘平に仕え、家中でも高い位置にあったとみられる。

安芸津町木谷の慶寿院にある宝篋印塔と五輪塔群。木谷氏のものと伝わる。
安芸津町木谷の慶寿院にある宝篋印塔と五輪塔群。木谷氏のものと伝わる。

沼田小早川氏との養子契状

 永正十年(1513)四月二十日、沼田小早川興平の次弟、福鶴丸を竹原小早川弘平の養子とする際に、沼田・竹原の両小早川氏の家臣たちが連署して養子契状を交換した。 この時、竹原小早川氏側の家臣として神保、柚木、川井、末長氏とともに木谷宮内少輔の名がみえる。このことから、木谷宮内少輔は竹原小早川氏の家政にも関わる重臣の一人であったことがうかがえる。

木谷氏の出自

 小早川弘平の父、弘景が15世紀末頃に作成した置文によれば、木谷氏は「天門」(弘景の曽祖父仲義)の代で別れた分家であり、惣領家から知行地を給付される「家子」であるとされている。竹原小早川氏が三津村(木谷・三津・風早)を獲得した正平十三年(1358)頃に、本拠である木村城と連絡する木谷に一門を配置し、木谷氏を名乗らせたと考えられる。

 また置文では当時の木谷氏当主を「年もひろい」(年をっている)としている。木谷宮内少輔との関連は不明だが、彼と同一人物もしくはその父であるのかもしれない。

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関連人物

  • 木谷備中守(初代):木谷氏の初代。備中守。木谷に菩提寺として大慶寺(現在の慶寿院)を建立した。
  • 木谷備中守:大永三年に陥落した鏡山城の城将、蔵田房信の妻子を預かったことが『陰徳太平記』にみえる。
  • 小早川弘平:弘景の子。実子がいなかった為、沼田小早川氏から養子として福鶴丸を迎えた。
  • 小早川福鶴丸(船木常平):沼田小早川扶平の次男。興平の弟。竹原小早川弘平の養子となるが、弘平に実子(興景)が生まれた為、実家に戻り船木姓を称した。
  • 末長治部少輔:竹原小早川家臣。連署養子契状の宛先の一人としてみえる。
  • 川井大炊助:竹原小早川家臣。連署養子契状の宛先の一人としてみえる。
  • 柚木藤蔵人:竹原小早川家臣。連署養子契状の宛先の一人としてみえる。
  • 神保掃部助:竹原小早川家臣。連署養子契状の宛先の一人としてみえる。
  • 土屋元相:沼田小早川家臣。養子契状に花押を添え連署している。
  • 真田敬賀:沼田小早川家臣。養子契状に花押を添え連署している。
  • 田坂是業:沼田小早川家臣。養子契状に花押を添え連署している。
  • 弐分元親:沼田小早川家臣。養子契状に花押を添え連署している。
  • 浦元安:沼田小早川家臣。養子契状に花押を添え連署している。

その他の関連項目

参考文献

  • 能島正美 『安芸津町史 通史編 第3章 古代・中世の安芸津のあゆみ』 2011 広島県東広島市