警固屋

けごや

 戦国期における呉衆警固屋氏の武将。

内藤隆世の介錯をつとめる

 弘治三年(1557)四月一日、長府勝山において、大内氏最後の重臣・内藤隆世が自刃する。『陰徳太平記』は、このとき「警固屋と云者」が介錯して隆世の頸を打落とし、毛利方から派遣された検使・兼重左衛門尉に渡したとしている。

毛利氏への敵対とその代償

 天文二十三年(1555)、毛利が大内氏と敵対すると、呉衆・山本賢勝は「呉惣衆中」を率いて大内方の対毛利戦に参戦。「警固屋」もまた賢勝とともに大内方に参じたと推定される。

 しかし間も無く呉方面は小早川氏に占領される。天文二十三年(1554)十月、小早川氏の将である末長景道や乃美宗勝らが、金山右京進に対して加茂郡広浦の呉衆の旧領を打ち渡しているが、その中には「警固屋先知行分」として田畠合わせて四十五貫五十文が挙げられていた。

徹底抗戦

  「警固屋」はその後も厳島合戦、続く毛利氏による防長侵攻に対しても一貫して大内方として抗戦したものとみられる。そしてついには、事実上の大内氏終焉の瞬間にも関わることになったものと思われる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)