今岡 三郎兵衛

いまおか さぶろうひょうえ

 天文二年(1533)頃の十一月、伊予の海賊衆・今岡通詮によって薩摩島津氏のもとに使者として派遣された人物。通詮が島津氏に宛てた書状にその名がみえる。

薩摩島津氏への使者

  天文二年頃とみられる年不詳十一月五日付で今岡通詮から島津氏家臣の徳永氏と安来氏に宛てて書状が送られた。内容は、主に連嶋三宅国秀一行が薩摩坊津で殺害された事件の了承と、通詮の琉球渡航の際の便宜の要請についてであった。文の最後に「猶巨細同名三郎兵衛可申入候」とあり、三郎兵衛が使者をつとめ、通詮の意思を口頭で伝えたものと思われる。またこれに先立って、琉球国が「武略」によって三宅国秀を殺害したとする島津氏側の説明を通詮に伝えていたのも、かつて薩摩に下向した三郎兵衛であったことが記されている。天文初年の書状以前にも三郎兵衛は少なくとも一回以上薩摩と瀬戸内海を往復していた。

瀬戸内海と薩摩との交流

 三郎兵衛が島津氏への使者となった背景には、今岡氏が普段から南九州と瀬戸内海、畿内とを結ぶ海路の警固にあたっていたためとも考えられる。天文年間、今岡伯耆守ら能島村上氏は厳島で薩摩と堺を往返する京や堺の商人から駄別料を徴収しているが、三郎兵衛はその際の商船への上乗などで薩摩方面とも頻繁に往返していたのかもしれない。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献