麻生 興春

あそう おきはる

 筑前国の有力国人。大内家臣。兵部大輔。麻生氏の竪系図では上総介弘家の子に配されている。一方で「麻生系譜 全」(『麻生文書』145)では麻生家延の子としている。

宗像氏内訌への介入

 永正八年(1511)以前、興春は宗像大宮司職をめぐる宗像氏の内訌に介入していた。興春が大内家臣・杉小次郎(興宣)に宛てた書状によれば、宗像氏佐と弘清が大内義興の意向に背いて大宮司職を競望し、これに対する「宗像方」(宗像興氏とみられる)に大内氏重臣・問田弘胤の子興之が味方するという状況にあった(「宗像神社文書」)。興春は問田弘胤の要請を受けて興之に協力しており、神明に誓う旨を示した書状も大内氏に提出していたらしい。興春らの介入は功を奏し、最終的に興氏が宗像大宮司職を得た。

安芸国での戦い

 大永年間、安芸国において大内氏と武田氏、尼子氏らの抗争が激化する。興春は大内方の一員として同国で戦っていた。慶雲寺(広島県東広島市黒瀬町南方)に伝わる「慶雲寺覚書」には、「筑前城主麻生上野介藤原興春」が生城山城(東広島市志和町志和東)に在陣していた大永六年(1526)二月九日に、生城山観音堂を建立したという棟札があったことが記されている。

 生城山城は安芸志芳の国人・天野氏の城だったが、同氏は尼子氏に属して大内氏に敵対したため、大永五年(1525)六月に拠城米山城を大内氏重臣・陶興房に包囲されて降伏していた。この後志芳方面の大内方の押さえとして興春が生城山城に入ったと考えられる。同年八月には、志芳荘別府(東広島市志和町別府)に武田氏の兵が侵入して天野氏と交戦しており(「天野毛利文書」)、志芳方面はなお大内方の最前線だった。

 麻生氏の竪系図は興春について、「芸州府中」で討死したと注記している。安芸国府中城は、武田方の白井備中守らが籠城して頑強に抵抗し、享禄元年(1528)七月まで陶興房らが在陣していた。上記の「慶雲寺覚書」の棟札の内容を事実と仮定すれば、興春は大永六年二月以降に府中城攻撃に加わり、享禄元年頃までに討死したと推測される。なお「麻生系譜 全」では享禄三年(1530)二月二十三日に死去したとしており、この場合は、府中城で討死したわけではないことになる。

故実の伝授

 永正十六年(1519)六月、大内義興は小笠原元長伝の「騎射秘抄」を書写し、これを興春に与えている。その奥書には、「此一巻、麻生兵部大輔興春懇望之間写訖」とあり、興春が故実伝授を要望していたことが分かる。

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関連人物

  • 麻生弘家
  • 麻生家延
  • 麻生隆春:土佐守。天文十五年、安芸国佐東郡の金山城督としてみえる。「春」が通じていることから興春の親類かもしれない。
  • 宗像興氏:宗像社大宮司。氏佐と大宮司職を争った。

その他の関連項目

参考文献

  • 川添昭二 「永正期前後の九州文芸の展開」(『中世九州の政治・文化史』 海鳥社 2003)
  • 川添昭二 「筑前芦屋の時宗・金台寺過去帳について」(『九州中世史の研究』 吉川弘文館 1983
  • 黒瀬町史編さん委員会編 『黒瀬町史 資料編』 2004