内海衆

うちのうみ しゅう

 南北朝期頃から安芸国の内海(現在の広島県呉市安浦町内海)を本拠とした武士団。本拠の立地から水軍としての性格を帯びていたと推定される。

内海氏ゆかりとみられる完形の五輪塔。南北朝期の建立と考えられている。
内海氏ゆかりとみられる完形の五輪塔。南北朝期の建立と考えられている。

有力な武士団

 内海氏が大檀那をつとめたといわれる内海の西福寺には、南北朝期に建立されたとみられる五輪塔が残っており、内海氏ゆかりのものと伝えられている。また内海には同じく南北朝期にさかのぼる宝篋印塔が少なくとも4基確認されており、その造りや規模は質の高いものだった。このことから内海衆はかなりの財力を有する武士団であったことが想定されるという。

竹原小早川氏への従属

  内海氏の詳細は不明な点が多いが、確かな史料では文明十年(1478)十月に内海三郎九郎定光が大内氏より筑前国鞍手郡と同国嘉摩郡に所領を得ていることが確認できる(『正任記』)。その後、15世紀末には西方に勢力を拡大する竹原小早川氏の家臣団に組み込まれた。

 内海の東に隣接する風早には内海衆の一族である風早氏がおり、内海衆よりも早くから竹原小早川氏に仕えていた。『小早川弘景置文』によれば、風早氏は「内之者」(譜代家臣)の筆頭である「手嶋衆」よりも本来は格上であるとされている。

Photos

西福寺観音堂。西福寺は内海氏を大檀那としたといわれる。同寺の観音像は鎌倉末期の製作と推定されている。 西福寺観音堂の土台には宝篋印塔の一部が使われている。 常広城址と現在の安浦町。 西福寺境内に安置されている宝篋印塔 の一部。 西福寺周辺の田の縁に安置されている五輪塔の一部。西福寺周辺には多数の石塔が点在しており、かつては広大な境内を有した寺院だったことがうかがえる。 亀山八幡宮南西の墓地に安置されている石塔群。五輪塔や宝篋印塔 の一部。西福寺のある常広城北方の谷には数多くの石塔が残されている。

当主

  • 内海貞明:応永年間に内海の亀山八幡宮の造営を行った(『芸藩通志』)。
  • 内海定光:大内氏に従って北九州で戦い所領を得ている。

一門

  • 内海市郎:内海の大将軍城の城主と伝えられる(『芸藩通志』)。

家臣団

居館・城郭

  • 常広城:『芸藩通志』には内海貞明の居所と記されている。
  • 大将軍城:『芸藩通志』には内海市郎の居所と記されている。