銅雀台瓦硯

どうじゃくだいがけん

 文明十七年(1485)、「北夷」(樺太)からアイヌ民族により、上ノ国花沢館を拠点としていた武田(蠣崎)信広にもたらされたと伝えられる硯。この硯は蠣崎(松前)氏の家宝として、近代の大正年間まで伝世されていたという。

 『福山秘府』年暦部・巻之一・文明十七乙巳条には「傳に云う。是の歳、北夷より瓦の硯が出でた。是は東漢の魏の曹孟徳の築いた所の銅雀台の瓦である也」とある。銅雀台とは、西暦210年、中国・後漢の権力者・曹操が造営した楼台のことであり、銅雀台瓦硯とは、この銅雀台の瓦を用いて造った硯であるという。

 その由緒の真偽はともかくとして、中国製の硯が樺太からもたらされたということは、近世の山丹交易ルートである中国黒竜江下流域から樺太を経由して、蝦夷地のソウヤ(宗谷)などに至るルートが既に存在していたということを示している。

 『新羅之記録』下巻によれば、文禄二年(1593)正月に松前(蠣崎)慶広が「奥狄唐渡の嶋」から持ってきたという「唐衣」を徳川家康に献上しており、16世紀には北方から中国産の絹織物も蝦夷地にもたらされていたことがうかがえる。

 このように蠣崎(松前)氏は中世・近世において山丹交易ルートの和人側の統括者的立場にあった氏族であり、この硯は同氏のそのような立場を象徴するような家宝であるといえる。

 

関連人物

  • 蠣崎信広

その他の関連項目

参考文献