石火矢(豊後)
いしびや
豊後国で製造されたとみられる大型砲。豊後を支配した大友氏は後期倭寇やイエズス会(ポルトガル)勢力と結び、対外貿易を積極的に展開しており、これにより製造技術が移入されたものと思われる。
大友氏の石火矢製造技術導入
渡辺宗覚は徳川家康に仕えた石火矢師であったが、その子孫が天和四年(1671)に幕府に提出した由緒書によると、宗覚は元は大友宗麟の家来であり、そのとき、命じられて唐に渡り、石火矢の造り方、射撃の仕方を学んだという。
史料の信頼性は定かではないが、大友氏領国に海外の技術が導入され、石火矢製造が行われていたことはうかがうことができる。
宣教師の情報
天正六年(1578)、織田氏が大坂湾に配備した新鋭の大船を見たオルガンティノは、フロイスへの書簡で搭載されていた大砲三門について触れ、「豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲」以外、自分たちは日本に砲があることを知らなかったと述べている。ここから「豊後の王」つまり大友宗麟が「小砲」を製造していたことが分かる。
島津氏に備える
さらに天正十二年(1584)の宗麟の覚に「屋敷普請等、折々油断なく申付られ肝要に候、殊に石火矢・手火矢、弥(いよいよ)、数を申し付られ、玉薬など、段々にその心懸専一に存候こと」とある。この史料は先述のイエズス会史料に符合するとみられる。島津氏ら周辺勢力に対して劣勢に陥った当時の大友氏が石火矢製造に力を入れていたことがうかがえる。