市原八幡

いちはら やわた

 下総国との国境付近、飯香岡八幡宮の門前に位置し、内海(現・東京湾)交通、および陸上交通の要衝として宿場、市場などと一体となって栄えた港町。

 『飯香岡八幡宮由緒本記』によると、後に小弓公方と呼ばれる足利義明は、小弓城に入る前、一時、市原八幡に御所(八幡御所)を構えていたといい(実際に“五所”という地名がある)、事実とすれば、当時における市原八幡の重要性を裏付けるといえる。

 戦国期の市原八幡については、発給者不明ながら、天正九年(1581)七月に出された八幡郷に対する法度が記された朱印状からうかがうことができる。この朱印状では八幡郷を「守護不入」の地と定め、「新市」が立てられるにつき、「押買狼藉」を禁じている他、「郷中商人」の諸役を免除するなど文言もみえる。このことから、当時の市原八幡は、領主が保護の対象とするような経済上重要な市場が立ち、そのもとで商人らが活発に活動していと思われる。また「新市」が立てられていることから、以前から市場が立っていたことも想定される。

神社・寺院

  • 飯香岡八幡宮

参考文献

  • 千野原靖方 『戦国期江戸湾海上軍事と行徳塩業』 岩田書院 2001