敦賀

つるが

 敦賀湾の奥に位置し、古代以来、日本海航路における京都への玄関口としての地位を占め、大いに繁栄した港町。

 日本海沿岸部各地から廻送された多くの物資は敦賀で陸揚げされ、運送を請け負う問を仲介して、海津や塩津など琵琶湖北岸の港町へ運ばれ、さらにそこから水運で近江南部、京都へと運ばれた。また延慶二年(1309)には気比社の門前町である鳥居厨子町が確認されており、同社の門前町としての性格も有している。

 敦賀は古くから新羅や渤海、中国など海外との交流も盛んであり、承暦四年(1080)八月に「大宋国商人」孫吉忠らが来航したように、「唐人」や「宋人」の来航もしばしばあった。このため敦賀には少なくとも平安末期には「唐人」が居留し、彼らを通じての珍奇な輸入品の入手も図られており、日本だけでなく、大陸の物や文化があふれる国際港として発展していた。

 文亀三年(1503)の史料にも「唐人橋」がみえ、これは堺の唐物商人である唐円が架けた橋に由来するとされており、戦国期においても海外との貿易が盛んであったことが窺える。

 また敦賀は地域の流通の中心でもあり、室町中期には川舟座や河野屋座といった船道座が形成され、朝倉氏の敦賀郡司の下で敦賀と敦賀湾周辺の商業・運送業を独占している。

 その他、16世紀末には出羽から伏見作事用板が敦賀に運ばれた際、敦賀の廻船もこれに従事しており、日本海広域の水運の拠点でもあったと思われる。

神社・寺院

  • 気比社
  • 妙顕寺
  • 永覚寺
  • 西福寺
  • 善妙寺

人物

  • 道川三郎左衛門

城郭

  • 金ヶ崎城

その他の関連項目

参考文献

  • 小葉田淳 「第五章第二節 日本海海運と湊町」( 『福井県史 通史編2』 1995)