天命

てんみょう

 武蔵・上野方面から宇都宮や小山へ至る幹線交通路の要衝に位置した宿場町。

 「天命」は広義には下野国阿曽郡の地名で、北は堀籠郷、南は馬門郷におよぶ地域。中世以降、天命鋳物の生産が盛んになった。

交通の要衝、天命宿

 天命の町場として、天命宿の存在が知られる。
 観応二年(1351)、駿河国に向かう宇都宮勢が天命宿に立ち寄ったことが『太平記』にみえる。同じく南北朝期の小山義政の乱の際には、諸氏の軍忠状に「天明御陣」の一節が散見され、天命宿が交通の要衝として軍勢の陣所になる場合が多かったことがうかがえる。

  室町期の享徳の乱の際、小山へ向かう上杉勢が天命宿の「前後」に陣取った(『松陰私語』)。「前後」に陣取ったのは、天命宿に人家が密集し、大軍の宿営に適さなかったためとも推測される。 その後、上杉勢が天命宿から撤収する際には、天命から「本海道を直に」只木山まで退いている。このことから、足利から小山へといたる「本海道」が天命宿を通っていたことが確認できる。

戦国期の天命の住人たち

 戦国期の天命の様子の一端は『永正十五年道者日記』にみることができる。『永正十五年道者日記』は、伊勢外宮の御師・久保倉藤三が永正十五年(1518)に上野、下野、武蔵、下総等を廻国した際の記録。檀那の名前や在所、供物などが記されている。

  「てんみょう(天命)のふん(分)」として書きあげられている檀那数は五十七名。これは日記中の各地のうち、武蔵「品川分南北」百十九名につぐ数値であり、当時の天命の繁栄がうかがえる。

  この中には「かなや(金屋)」や「かなやのこうし(金屋小路)」の注記がある檀那が存在する。天文四年(1535)の仏像銘に「天明金屋住 太田右衛門次郎」とあるものがあり、金屋が天命の地名であることが分かる。一般的に「金屋」は鋳物師たちが集住する集落を指すことから、天命鋳物の製造に携わった鋳物師や工人たちが天命宿付近の金屋地区やあるいは金屋小路に集まって住んでいたとみられる。

  また「在所とむろ」や「在所ほりこめ」「在所高山」といった注記の住人もいた。彼らは広義の天命を構成する戸室、堀籠、高山の各郷を本拠・本貫としていたとみられ、経済的な理由などで、ある時点から天命宿に進出したと考えられる。天命宿への周辺からの集住がある程度進みつつあったのかもしれない。

近世佐野藩城下町の成立

 慶長五年(1600)以降、佐野氏が居城を唐沢山城から天命春日岡に移転。城下町への改変にともない、天命宿やその周辺は大きく景観を変えたとみられる。これにより近世佐野藩の城下町・佐野が成立した。

神社・寺院

  • 惣宗寺

人物

  • 大河左衛門尉太郎

商品

  • 佐野天命

城郭

その他の関連項目

参考文献

  • 江田郁夫「中世の天命」(『中世東国の街道と武士団』) 岩田書院 2010