鹿田

しかた

 岡山平野南部、近世干拓以前の鹿田川(旭川)河口部に位置した港町。同地域の豊かな農業開発地に立地した摂関家領・鹿田荘の中心として栄えた。

 鹿田遺跡の平安期以前の遺構からは円面硯や石帯、墨書土器などが出土しており、当時の鹿田が公的性格を持ち、あるいは国府津(国府の外港)に位置づけられていたともみられている。

 寛和二年(986)、備前国司・藤原理兼による鹿田荘への濫妨事件の中で、同荘の荘官・寄人らの居宅三百余戸が燃亡しており、平安期には既に大きな集落が形成されていた。また長徳四年(998)には、鹿田荘の梶取が別当の船を借りて美作国の米や塩を奈良の秋篠寺に運んでおり、港町として物資輸送の拠点にもなっていた。

 正安二年(1300)の「備前国上道郡荒野荘絵図」では、鹿田川河口部西岸に多くの市庭在家が描かれている。鹿田遺跡の発掘成果もこれを裏付けており、平安末期から鎌倉期の時期は、集落が以前に増して拡大していたことが分かっている。また、この時期の遺構からは備前焼や亀山焼などの周辺で生産された焼物のほか、楠葉型・和泉型瓦器椀、東播系須恵器、常滑焼、中国産青磁・白磁など、遠隔地から運ばれたものが出土するようになっており、瀬戸内海流通を介して鹿田に多くの物品がもたらされていたことがうかがえる。

 さらに鎌倉末期から室町期に至ると屋敷地を区画する溝が拡充整備されており、さらに都市的な発展を遂げていたことが分かる。

参考文献

  • 兵庫・岡山・広島三県合同企画展実行委員会・編 『津々浦々をめぐるー中世瀬戸内の流通と交流ー』 2004