西大寺
さいだいじ
吉井川の中世における河口部に位置する西大寺の境内に形成された門前町。周辺経済の中心を担う市庭町としても栄えた。元亨三年(1323)の史料には「市津」としてみえ、港町でもあったことが分かる。
古図にみる西大寺の市庭
元亨二年(1322)に作成された「西大寺観音院境内古図」には、西大寺境内の市庭の様子が描かれ、「市庭敷」などの書き込みがある。すでに鎌倉期には市庭として成立していたことがわかる。
この「境内古図」には裏書があり、国衙(領家)方と地頭方が折半して市庭の「成敗」(治安維持などの検断)にあたっていたことが記されている。さらに市庭には、酒屋、魚座、餅屋、筵座、鋳物座などがあり、公事(租税)を納めていた。特に魚屋は年間三百文(他は百文)を納め、これとは別に「船艤別百文」も支払っており、市庭では魚介類の取引が中心であったことがうかがえる。
西大寺の市庭は金岡荘の農民の年貢米換金市場でもあったようで、その値段をめぐって、領家と農民が対立することもあった。
西大寺の朝鮮製銅鐘
西大寺観音院には高麗時代に作成されたとみられる朝鮮製銅鐘が残されている。朝鮮半島との交流があったこともうかがわせる。
戦国期の西大寺
戦国期になると、市庭の支配は西大寺自身が担うようになった。延徳四年(1492)に浦上宗助が西大寺市場敷などを造営料として西大寺に寄進しており、その後の浦上宗久、国秀、政宗らも、市場敷・市場屋敷を西大寺に安堵している。