大浜
おおはま
西三河の重要河川である境川、矢作川の両河川河口部に位置し、内陸水運と三河湾、伊勢海との結節点を担った港町。奥三河や美濃の山中などで伐り出され、境川や矢作川を下して運ばれる材木の積出港であったと推定され、室町・戦国期には多くの船が集う物資の集散地であった。
応永二十八年(1421)、大浜一帯を支配する領主・和田氏から大浜称名寺(大浜御道場)に出された寄進状には、項目のひとつに「船問料大舟小舟事」とあり、このとき既に大浜が大小の船舶が入港する湊であったことと、称名寺が、入港船から「問料」を徴収し、管理する問丸の機能を担い、大浜で大きな位置を占めていたことがわかる。また同史料には「材木船公事」「惣材木事」とあり、河川上流の内陸部の木材や海運による遠隔地からの移入材が大浜に集積されていたことがうかがえる。
大浜には熊野社があり、応永十六年(1409)の史料にも熊野那智社の檀那が大浜にいたことがみえることから、良材の産地である熊野から海運で木材が運ばれてきたとも考えられる。
戦国期、和田氏が衰退する中で勢力を拡大させた松平氏も信忠や元康が港町・大浜を支配する称名寺に寄進を続けて掌握に腐心しており、大浜の重要性がうかがえる。
神社・寺院
- 熊野社
- 称名寺
参考文献
- 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998