中居

なかい

 能登半島の七尾北湾の深い入江に臨み、中世、能登釜として知られる鉄釜をはじめとする鋳物の生産と積み出しで栄えた港町。

 中居の鋳物師の銘の入った鋳物として早いものは応永三年(1396)の珠々郡寺山村の鋳造五社大明神懸仏があり、他にも明応八年(1499)の越後国能生泰平寺の梵鐘や、元亀三年(1572)の羽咋郡富来八幡宮梵鐘などが知られている。これら梵鐘などの大きな鋳物は、おそらく中居から舟運によって運ばれていたものと思われる。

 一方で、戦国期、中居の鋳物師は朝廷から日本国中の関渡の諸役免除の綸旨を得て、禁裏御用の格式をもっており、日本各地に赴いて現地での鋳造も行っていた。飛騨国千光寺には中居の鋳物師による天文十五年(1546)の梵鐘が残されているが、これは中居の鋳物師が飛騨に赴き、現地で鋳造した可能性があるという。

 このように中居は鋳物の生産・積出のほか、技術者自身の交通の拠点となって越後や能登外浦、飛騨、畿内をはじめとする広域の各地とつながる水運・交通の要港であった。

参考文献

  • 東四柳史明「日本海交通の拠点 能登」(網野善彦、石井進・編『中世の風景をよむ 6 内海を躍動する海の民』) 新人物往来射 1995