来島三日市
きじまみっかいち
出雲・石見国境域の市場町。現在の島根県飯石郡飯南町野萱字三日市。山陽と山陰を結ぶ陰陽交通の幹線路である出雲路(備後路)が縦貫する要衝に位置している。北方の下三日市大前原では慶長年間に牛馬市が始まったという。
佐波氏による「かり屋」給与
来島三日市は雲石国境地域を勢力圏とする有力国人佐波氏の支配が及んでいた。天正十四年(1586)九月、佐波家臣・矢野次郎右衛門尉の知行地に「来島三日市かりや」がみえる(「林家文書」29)。この「かりや」(仮屋、仮設の店舗)は主家・佐波氏から与えられたものだった。矢野次郎右衛門尉の知行地は佐波氏重臣・森氏の権益を継承したものであり、森氏の後身ともいわれる。森氏は天文年間頃に「三日市かり屋」等の給与を受けている(「林家文書」16)。佐波氏は来島三日市において被官森氏に商業活動をさせ、地域経済や流通に関与していたと考えられる。
佐波家臣・森氏
佐波氏から来島三日市かり屋を給付された森氏は、家臣であると同時に特権的商人としての性格も持っていたと推定されている。天文十年(1541)二十四日、森長門守が佐波隆連からの求めに応じ、緊急で三百俵の兵粮米を調達(「林家文書」12)。同月二十八日にはさらに二百俵を用立て、佐波氏の拠城に搬入している(「林家文書」13、14)。短期間に五百俵もの兵粮米を確保しており、その能力を知ることができる。
さらに元亀元年(1570)正月、森甲斐守が毛利輝元と吉川元春から「かす坂峠」(飯南町都加賀から雲南市吉田町民谷の間の峠)での「宿」の設営を命じられている(「林家文書」25、26)。当時毛利氏は出雲富田城への援軍の為、輝元を総大将として大雪の中を行軍していた。この「宿」は軍勢の宿泊・休息施設だけにとどまらない。搬入して用意された兵粮米の補給基地であるとともに、軍需物資の輸送機能を備えた進軍基地としての性格も有していたと推測されている。
森氏の給地は来島三日市のほか、赤穴(飯南町赤名)、由来村(飯南町頓原)、入間(雲南市掛合町入間)、中郡宇治村など出雲路沿いに所在している。これら陸上交通の要衝に拠点をかまえて商業、金融、交通、運輸等の経済活動に関わっていたともいわれる。