河尻

かわじり

 肥後国の中央部、熊本平野南部に位置する港町。同平野南部を貫流し、かつての「大川」(白川と緑川が合流して有明海に注ぐ河川)の河港として栄えた。

大川の渡河

 天正三年(1575)、上京途中の島津家久一行は、大渡・河尻で関銭を徴収されている (「中書家久公御上京日記」)。河尻は大川の渡河点として陸路の要衝であったと思われる。

河尻の支配から公界の地へ

 鎌倉中期、河尻の在地領主・河尻泰明は、寒巌義伊の大渡架橋や、後に河尻の中核寺院となる大慈寺の建立を援助しており、同氏のもとで河尻は発展の基礎が形成される。15世紀前半までに河尻氏の勢力は衰えるが、その後の河尻は特定の領主の支配を受けない「公界」の地となり、自治都市的性格をもって発展する。

大きな港町

 戦国期、河尻は多くの舟が行き交う発展した港町となっていた。永正十四年(1517)七月、肥後に入った連歌師・宗碩は河尻の会所で「千舟より川やちりはう柳かげ」と詠んでおり、当時の河尻の様子をうかがうことができる。天正八年(1580)、島津氏の軍勢は三千余艘の兵船で河尻を一度の出港していることから、河尻の港湾規模がかなり大きなものであったことが推定され、前述の宗碩の歌を裏付けている。

 また永禄七年(1564)、イエズス会宣教師アルメイダの書簡からは、イエズス会宣教師が河尻を「異郷徒の町」「大なる町」と呼んで熱心な布教活動をしていることがうかがえる。このことからも河尻が大きく発展した都市であったことがわかる。

神社・寺院

  • 大慈寺

参考文献

  • 松本寿三郎 板楠和子 工藤敬一 猪飼隆明 『熊本県の歴史』 山川出版社 1999