石巻

いしのまき

 東北地方を縦断する大河川・北上川の河口部に位置し、古代から同河川流域と海の道の結節点を担った港町。

 石巻市の新金沼遺跡は4世紀代の北上川河口部の大規模集落とされ、古式土師器(塩竃式)にまじって北方系の続縄文土器と南方系の関東東海地方の土器が出土しており、北方世界と倭人世界をつなぐ交易ネットワークの拠点となっていたといわれる。

 『日本書紀』仁徳天皇紀五十五年の部分に蝦夷討伐に派遣された上毛野田道が「伊寺水門」で戦死した記事がみえるが、この「伊寺水門」が「いしのみなと」すなわち石巻港とされる。この事績の真偽はともかく、少なくとも石巻は北上川流域への進出をはかる律令国家の重要拠点という認識があったことは窺える。それはおそらく、東北経営の中心である多賀城や後方の関東地方と海路での連絡が可能なためとみられ、8世紀には石巻の地に牡鹿柵が設置される。

 平安後期、東北に奥州藤原氏が栄えるが、その中心都市・平泉の遺跡からは東海地方の大瓶を含む常滑焼や渥美焼の陶器片が大量に出土している。大型を含む陶器の大量輸送は海路以外に考えられず、これらは太平洋海運で石巻に陸揚げされ、北上川水運で平泉まで運ばれたものと推定されている。

 東海地方との関係は戦国期にも継続されており、天文二十四年(1555)に石巻水沼地区の龍源寺で没した天以乾斎は、元は尾張国・内海の姓海寺の住持であり、70歳で奥州にわたり龍源寺を開いたという。

神社・寺院

  • 龍源寺

参考文献

  • 斉藤善之 「塩竃津と石巻港―港町空間の発展と類型論によせて」 (歴史学研究会編 『港町の世界史②港町のトポフラフィ』 青木書店 2006)