放生津

ほうじょうつ

 小矢部川・庄川と放生津潟とを結び、中世はラグーン状であったともみられる内川南岸に形成された港町。日本海海運の要港として栄えた。庄川や小矢部川、神楽川、また放生津潟に注ぐ鍛冶川、下条川によって越中西部各地と連絡し、これら河川上流域の年貢等は放生津から越前方面に積出されたとみられる。

日本海航路の要港

 延徳二年(1382)、岩清水八幡宮が放生津を往来する船への課役を支配下においている。当時の放生津での活発な水運が背景にあったとみられる。また嘉元四年(1306)九月、放生津の本阿を船主とする「関東御免津軽船二十艘之内随一」の「大船」が、三国湊で積荷を略奪される事件が起きている。放生津が津軽と越前を結ぶ日本海航路の要港であったことを窺うことができる。

門前町としての側面

 本阿はその名から時衆とみられるが、放生津には時宗の他に臨済宗、律宗、後には真宗が進出していた。これら寺院の境内・門前が複合して放生津を構成していたと推定される。

神保氏、上杉氏の支配

 室町期、放生津には能登守護代・神保氏が拠点を置いていた。明応二年(1493)から七年間、神保長誠は前将軍・足利義材を放生津に招いて正光寺を御座所としている。

 16世紀後半からは越後上杉氏の勢力が強まるが、放生津は依然として発展をつづけていた。天正四年(1576)、上杉方は放生津に「十楽」を安堵しており、天正九年(1581)には神保長住が放生津八幡領町・三宮方に対して、放生津・湊町・山王門前の市庭に保護を加え、押買狼藉の禁止、平夫・棟懸・徳米などの停止を特権として与えていることなどがみえる。

神社・寺院

  • 気比社
  • 放生津八幡宮
  • 報土寺
  • 興化寺
  • 禅興寺
  • 曼荼羅寺
  • 正光寺
  • 専念寺

人物

  • 足利義材 :室町幕府第十代将軍。能登守護代の神保長誠の招きで放生津の正光寺を御座所としたことがある。

城郭

  • 放生津城

参考文献

  • 仁木宏 「港津と守護所をめぐる一考察」 (矢田俊文・竹内靖長・水澤幸一・編 『中世の城館と集散地』 高志書院 2005)