閉伊(宮古)
へい
北上高地から宮古湾、太平洋に注ぐ閉伊川河口部、および宮古湾岸にあった港町。中世に遡って太平洋海運によって津軽、関東方面とつながっていたと推定される。港町の中世における固有名詞は確認できず、便宜的に閉伊湊とする。
閉伊氏一族と閉伊川水運
現在の宮古湾の後背地丘陵部には田鎖城、千徳城、根城館、呂木館、松山館など、南北朝期から室町中期にかけて築城された山城が湾や閉伊川、津軽石川を見下ろす位置に点在している。田鎖党と称された閉伊氏一族とその家臣団は、かつてこれら城館群に割拠しており、閉伊川水運とともに閉伊湊における海運にも関わっていたと推定される。
閉伊氏と鎌倉由比ヶ浜
弘安八年(1285)、閉伊三郎左衛門十郎が北条貞時から鎌倉の港湾部である由比ヶ浜に宅地一戸主を宛がわれている。閉伊氏と鎌倉の海路によるつながりを前提としているとみられ、閉伊氏と太平洋海運との関わりがうかがえる。
中世閉伊の集落
閉伊の集落推定地としては閉伊川河口部の鍬ヶ崎があり、中世に遡る熊野神社を起点に集落が形成されたといわれる。河口から少し遡った千徳は閉伊氏の本拠地であるとともに、南北朝期以前から大伽藍を構えた長根寺があり、その門前に集落があった形跡がある。
常陸那珂湊との関わり
この長根寺旧蔵の文和五年(1356)の年紀入りの大般若経奥書には「奉寄進 奥州閉伊郡於長根寺之常住」とあり、その隣の方に「執筆 常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」とある。長根寺に寄進された大般若経を常陸国那珂湊の僧侶が執筆していたということから、閉伊と那珂湊との連絡が海路を介して行われた可能性が指摘されている。
神社・寺院
- 熊野神社
- 長根寺
城郭
- 千徳城
- 根城館
参考文献
- 市村高男 「中世後期の津・湊と地域社会」 (中世都市研究会 編 『津・泊・宿 中世都市研究3』 新人物往来社 1996)
- 綿貫友子 「中世陸奥国の海上交通と陸上交通」 (『柳原敏昭・飯村均 編 『鎌倉・室町時代の奥州』 高志書院 2002)