浜田

はまだ

 石見国中部、浜田川河口に位置する港町。馬島、矢箆(やな)島、瀬戸ヶ島によって北風から守られた天然の良港。嘉吉三年(1443)から文安元年(1444)の間に書写された宝福寺(現浜田市大辻町)所蔵大般若経奥書に「那賀郡小石見郷濱田村」と見えるのが史料上の初見とされる。

対岸から眺めた瀬戸ヶ島。中世、瀬戸ヶ島が船舶の停泊地になっていたのかもしれない。
対岸から眺めた瀬戸ヶ島。中世、瀬戸ヶ島が大型船舶の停泊地になっていたのかもしれない。

唐船の来航

 16世紀半ば、中国で成立した『図書編』は、石見国は銀と銅をよく出す所だとした上で、中津、須津、長浜温泉津とともに「番馬搭」(浜田)を挙げている。『図書編』の記述はこの時期の石見の港が石見銀の増産で活気付いていた状況を反映しているとみられる。 永禄十二年(1569)、尼子氏の旧臣・米原綱寛は浜田に唐船が入津していることを聞き、四、五日滞在して珍器などを買い求めている(『陰徳太平記』)。

福屋氏の進出

 戦国期、浜田には小石見郷方面に勢力を伸張した有力国人・福屋氏の影響が及んでいたらしい。永禄五年(1562)二月に福屋氏は毛利氏に攻められ滅亡するが、そこからあまり時間が経過していないと思われる年の九月、吉川元春は森脇一郎右衛門尉ら浜田番衆に対し、福屋氏残党が杵築から福屋旧領をうかがっていることを伝えている(『岩国藩中諸家古文書纂』森脇久太夫)。またこの史料では、浜田の「町人」らが吉川氏に人質を差し出しており、元春が浜田番衆に対して浜田での船の出入りに注意を払うように指示を出している。元春の浜田町人に対する警戒の背景には、浜田の町人と福屋氏との密接な関係がうかがえる。

島津家久の来訪

 年未詳二月十五日吉川元春書状において、元春は山県善右衛門尉に対し、仁保元棟(元春の子)に小石見村を与えたことを「市浜田町人等」に伝達するよう指示している(『岩国藩中諸家古文書纂』山縣彦兵衛)。この文書は元亀から天正初年の間に発給されたものとみられ、浜田が町場として発展し、市場も存在していたことがうかがえる。

 天正三年(1575)六月、薩摩の島津家久が京都からの復路で浜田を訪れた。『中書家久公御上京日記』によれば、六月二十七日に温泉津から海路で浜田に入った家久一行は、大賀次郎左衛門の家を宿として十日あまり浜田に滞在した。その間、秋目や坊津、京泊、鹿児島、伊集院、加治木など薩摩国各地の船衆・町衆が酒や肴をもってきている。南九州から日常的に商人が浜田に赴いていた様子がうかがえる。

 二十九日には家久が「濱田の町」を見物しているので、当時の浜田の町はかなり賑わっていたと思われる。また家久は七月九日には船で「濱田の風呂」に出かけている。その日は瀬戸ヶ島に停泊していた薩摩京泊の「尾張」という者の船で酒宴しているので、風呂は瀬戸ヶ島の近くにあったのかもしれない。翌日、家久一行は浜田を出船し、十二日に平戸に着岸した。

Photos

高尾山中腹から眺めた浜田の町。左側の丘陵が浜田城跡。中世の港町浜田は高尾山と浜田城の間の浜田川河口部に形成されたともいわれる。 浜田京町の町並み。軍の拠点となった明治以降の町並みが一部残されている。 浜田京町の町並み。 浜田城の東側、夕日が丘山頂部にある宝篋印塔。花崗岩製。基礎部3面に近江式文様があるという。 国道9号線の亀山橋から眺めた浜田川と浜田城跡。 画像奥に画像奥に旧浜田県庁の門。元々は津和野城の門だったらしい。浜田城ゆかりの門というわけではなく、場所も本来は門のない位置にある。 浜田城のニノ門跡と枡形虎口跡。石垣で方形に囲まれた枡形虎口により、二ノ門をくぐった敵の進路を阻む構造となっている。 浜田城の本丸跡。往時には周囲に塀を廻らせ、奥には三重櫓(天守)があった。 浜田城本丸から眺めた浜田の町並み。 瀬戸ヶ島の厳島神社。足利直冬が勧請したという。 道の駅ゆうひパーク浜田の展望台から眺めた瀬戸ヶ島。 松原湾。日本海に臨む入り江。天然の良港であり、江戸期は多くの船が入港し、外ノ浦で積荷の上げ下ろしを行った。 会津屋八右衛門の碑。八右衛門は江戸期の浜田の商人。天保年間に海外貿易を敢行し、浜田藩の経済発展を助けたが、後に幕府に知られて処刑されたという。 日和山の方角石。日和山ではこの方角石をもとに風向きや風速が観測されていたという。

神社・寺院

  • 厳島神社:瀬戸ヶ島に鎮座する神社。正平九年(1354)十一月、足利直冬が九州五島より勧請した。
  • 来迎寺:天台宗寺院。現在の心覚院。本尊の木造阿弥陀如来立像は建長七年(1255)の墨書銘がある。

人物

  • 大賀次郎左衛門:島津家久に宿を提供した。三隅湊の大賀氏との関係も指摘されている。
  • 福屋正兼:石見の有力国人。隆兼の父。
  • 福屋隆兼:石見の有力国人。正兼の子。毛利氏の攻撃で永禄五年二月、本明城を脱出して浜田細腰から出雲杵築に逃亡した。
  • 井下左馬丞:石見市山の土豪。天正十年(1582)当時、市山に居屋敷がありながらも、小石見の「湊大登い」に「屋敷七ツ」を持っていた。

城郭

  • 浜田城

参考文献

  • 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』  吉川弘文館 1987)
  • 井上寛司 『石見学ブックレット2 中世の港町・浜田』 浜田市教育委員会 2001
  • 佐伯徳哉 「戦国期石見国における在地領主支配と地域経済秩序−益田氏庶流福屋氏の発展・滅亡過程を中心に−」(『中世出雲と国家的支配−権門体制国家の地域支配構造−』 株式会社宝藏館 2014)