青戸(青津)

あおと

 関東平野の水系の一つ・中川右岸に位置する宿場町。中世、河川交通の要衝とともに葛西御厨の中心を担った。

地名の初見

 正応元年(1288)、葛西地域を支本拠とした葛西宗清の代官として「青戸二郎重茂」が奥州平泉に赴いており、この頃には「青戸」の名を苗字とする武士がいたとことが分かる。

葛西御厨の菊池氏

 応永三十三年(1426)、葛西御厨の年貢未納を伊勢神宮が鎌倉府に訴えた際、鎌倉公方・足利持氏から対処を命じられた関東管領・上杉憲実は、家臣・大石憲重に同様に対処を命じ、さらに大石から菊地三郎左衛門に命じられている。菊地(菊池)氏は『本土寺過去帳』の「菊池霊、長享二年申五月、葛西青津」の記事から、青戸(青津)を拠点とする氏族であるといわれ、このことから室町期、菊池氏が葛西御厨の代官的地位にあり、青戸が同御厨支配の中心にあったことがわかる。

反北条氏の防衛拠点

 この時期、青戸には葛西城が築かれて山内上杉氏の重要拠点となり、戦国期には北条氏の進出拠点、同時に反北条勢力の防衛ラインとして攻防が繰り広げられた。

戦国期の発展

 戦国期の青戸は、永禄二年(1559)の『小田原衆所領役帳』によると葛西地域の中で最も役高が高いところとなっている。また永禄十一年(1568)の史料から、北条氏によって青戸の対岸に葛西新宿が整備されていることがわかり、青戸が交通の要衝にあって都市的な発展を遂げていたことがうかがわれる。

城郭

  • 葛西城

参考文献

  • 葛飾区郷土と天文の博物館・編 『東京低地の中世を考える』 名著出版 1995