地方水軍呉衆の興亡 第1回 山本氏の北上

呉衆という水軍をご存知でしょうか?

天文二十三年(1554)以前の芸南地域勢力図
天文二十三年(1554)以前の芸南地域勢力図

 呉衆は文字通り、現在の広島県呉市(安芸国安南郡 呉保)を本拠地とした小領主の連合体です。周辺の多賀谷氏(蒲刈島、倉橋島)や能美氏(能美島)らとともに「三ヶ島衆」とも呼ばれ、南北朝期から戦国期にかけ、周防大内氏に属する警固衆(水軍)として応仁の乱をはじめとする同氏の戦役に従軍して活躍しています。

 とはいえ、一般にはほとんど知られることの無いマイナーな存在です。 戦国期中頃には大内氏の衰退と安芸国の動乱の中で連合体が崩壊し、姿を消してしまいました。
  そんな呉衆の興亡を追い、変化する時代と環境に翻弄される地方水軍の運命を考えてみたいと思います。

 

呉衆山本氏の出自

 呉衆のリーダー格であり、現在の呉市和庄・杉迫城を拠城とした山本氏は、南北朝期に安芸国南部(芸南)に進出した北朝方伊予衆の流れをくむといわれています。

 芸南地域には既に鎌倉末期から伊予勢力の進出があったといわれ、南北朝期の貞治三年(1364)、北朝方伊予守護・細川頼之に追われた南朝方・河野通直に属す二神氏、南方氏が呉を制圧して拠点としたようです。両氏はその後、応安元年(1368)、体勢を立て直した河野通直が伊予国に侵攻した際に呉を離れて河野氏に合流し、今度は北朝方勢力が伊予から駆逐されます。

  そしてこのとき北朝方として河野氏と戦った伊予衆の中に、後に蒲刈と矢野へそれぞれ進出する多賀谷氏、乃万(野間)氏とともに「山本四郎」の名がみえます(『予章記』)。おそらく、この時、南朝方に駆逐された山本氏は伊予を離れ、二神・南方の両氏がいなくなった呉に進出したものとみられます。

  ちなみに多賀谷氏は正平六年(1351)九月、多賀谷孫次郎が南朝方・常陸親王に日高下島(蒲刈島)を没収されているので、少なくとも14世紀中頃には蒲刈に進出していたことが確認されています。このことから、南朝方に敗れた多賀谷氏は、かつての領地・蒲刈を奪回して伊予から移っていったものと思われます。

  さらに次に挙げる史料から、山本氏と伊予とのつながりがうかがうことができます。

[史料1] 年未詳 河野晴通書状

先度令申候之處委細示預候、本望候、如仰代々無御等閑筋目候、於向後も尚以可申承候、仍(宇都宮)豊綱に以使節申候之處、從途中罷歸候之条、重而(伊予)善應寺進之候、毎事御分別候て堺目等之儀彌静謐之様、御入魂尤可爲本悦候、將又我等父子間之事、霜臺依覚悟相違候如此候、雖然所々悉々拙者存分之儘成行候、可御心安候、父子和睦之儀は以時分、從是豊綱に可令申候、猶旨趣自松末備後守所可得御意候、恐々謹言
      七月廿四日                     (河野)晴通 判

  [史料1]は伊予守護・河野氏の当主・河野晴通(通政)の書状です。年未詳ですが、書状の中で晴通が「父子和睦之儀」のことを言っているので、晴通が河野氏の内訌を収め、義父・通直を湯築城から追放して家督を相続した時点(天文十一年?)から通直が病死する天文十二年(1543)までの間のものと思われます。また、その宛先は、この書状が小早川氏に吸収された山本氏に残されたものであることから、当時の山本氏当主・山本房勝であったと思われます。

南北朝期、伊予衆の北上(ルートは適当)
南北朝期、伊予衆の北上(ルートは適当)

  書状の概要ですが、先に触れた河野氏の家督紛争が落着したこと、大津(大洲)城主・宇都宮豊綱に使者を派遣したことなどを述べ、晴通の思い通りになっているので安心するよう伝えています。

  さて、 この書状から、まず分かることは、河野晴通と山本房勝がかなり緊密な関係にあることです。書状全体の内容から、これ以前にも晴通と房勝が何度も書状のやり取りをしていることが分かりますし、直接的に「御入魂尤可爲本悦候」と言っている箇所もあり、また房勝に書状を届けているのが河野氏の一族とみられる「松末備後守」(通康?)であることからも晴通が房勝を重視していたことがうかがえます。

  この両者の関係の理由としては、まず晴通が通直の養子で、元来は予州家(河野氏庶子家)の出身であることが考えられます。かつて室町期の応仁・文明の乱に前後して、河野惣領家・河野教通と予州家・河野通春は伊予支配をめぐって激しく激突しており、文明十年(1478)十月二十六日、呉衆を含む三ヶ島衆は大内氏から伊予に渡海して通春を支援するよう命令を受けています。あるいはこの件がきっかけで予州家と山本氏との関係が生まれたのかもしれません。

  ただ、注目されるのは「如仰代々無御等閑筋目候」という箇所です。意味をそのままとれば、河野晴通が山本氏を河野氏の一族と認めているとも解釈できます。これはいまだ不安定な立場にある晴通が山本氏、もしくはその背後にいる大内氏の後援を得るためのお世辞や動機付けであったのかもしれませんが、少なくとも山本氏が伊予の出身という認識が前提にあるということは言えると思われます。

 そう考えると、山本房勝と河野晴通の緊密な関係の背景には、山本氏が呉に移って以後も、河野氏ら伊予の勢力との関係を保持していたことがあったのかもしれません。

主要参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)
  • 下向井龍彦 「中世の倉橋島」 (『倉橋町史』通史編 2001)
  • 能美正美 「第三節 蒲刈と多賀谷氏」 (『蒲刈町誌』通史編・第2章古代・中世の蒲刈 2000)

史料出典

  • 史料1
    萩藩閥閲録 巻168 浦図書家来 (山口県文書館 『萩藩閥閲録』第四巻 1967) P463~464